「その輿の中の女子は誰だときいているのだ」 猛牛のような面魂
の大男に、派手な馬の胸あてをつけさせ、紅白の手綱をかませ、悠々と肩車に乗っている。 それが五、六歳の少年ならば、乗馬遊び・・・・と微笑で迎えられたところだが、乗っているのはすでに全身へ青春の香を漂
わす若者。 髪は茶筅
で元結 はこれも紅白だった。着ている小袖の生地も染めも並
のものではないのに、胸ははだけ、襟
はよごれている。 腰にはどこかですなどった川魚らしきものを五、六匹と印籠
と火打ち袋をいっしょにぶら下げ、そのわきに朱鞘
の四尺近い細身の太刀を横たえている。 いや、それよりもさらに奇妙なのは左手の袖をひじまでめくりあげて、握り飯をむさぼり食う、その食い方だった。 面差しはきりrと細く緊まって、眼はカーッと燃えている。それがまっ白な歯をむき出してガツガツ食うさまは、物狂いした貴人か、檻
を破った若豹 の感じであった。 於大の供をしていた足軽に一人が、おどろいて、 「これこれ近づくな」
と、槍をむけたが、その穂先には眼もくれず、 「輿の戸を開けよといっているのだ」 於大はその若者の顔をじっと内からながめていてポンと膝を叩くと、急いで扉を内から開いた。 これこそまぎれもない城主信長なのだ。去る年の秋、熊屋敷で対面した吉法師の幼な顔はしでにない。が、その眼の光と眉の秀麗
さとが、於大の記憶によみがえった。 輿の戸が開くと信長の眼は射抜くように於大にそそがれた。 「これはまさしくご城主さま。久松佐渡が妻女にござりまする」 「うむ、何の用があって城へ参った」 「天王社ご参拝お許しのほど願わしゅう、まじもってご城主様へご挨拶にまかり出でましてございまする」 信長はこくりとうなずくと右手の手綱を口へくわえて、パンパンと両手を打ちあい、左手の指先についていた飯粒をバラバラとあたりへ払った。 「お許は天王社の祭神を存じおるか」 「はい」 「申してみよ。信長はな、神としいえば、いわれも知らずに拝みくさる徒輩はきらいじゃ」 「畏
れながら兵頭 神
、天 児屋
根 命
をいつきまつるとうけたまわっておりまする」 「するとお許はわが子をそれにあやからせようとか」 「はい、仰せのとおり」 於大がはっきり答えると、ふっと双眸
にいたずららしい微笑を匂わせ、 「よし通れ、予はお許を覚えておる」 こんどは右手の鞭
をあげて、ぴしりと乗っている男の尻をたたいた。 男はいかつい顔をいっそういかつくしてヒヒヒンと大きくいなないた。それが合図らしい。茫然
とこの場のさまをながめていた久六の前で、大きな門はギーッと音を立てて左右に開いた。と、肩車に乗ったいたずら城主は、そのままうしろも見ずに悠々と城の中へ消えて行く。 久六はホツと於大に近づいた。 於大はまだじっと信長の消えていった空間をみつめてまばたきを忘れていた。
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