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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/23 (土) 恋 慕 し ぐ れ (五)

「ホホホ・・・・」 突然お春は笑いだした。
八弥を見つめている眼が水を含んで熱くぎらつき、ふいに呼吸がはずんで来た。
どうやら狂った女の体内で何ものかに火のついた様子だった。
「また殿がおたわむ れを・・・・」
「戯れではない。殿はたしかに狂われた」
「殿が狂われたなどと、では・・・・あなたはどなたなのじゃ?」
「わしは八弥じゃ。わかるであろう」
「ホホホ・・・・」 と、お春は、
「殿は、いつもお春と八弥の仲をやかれる。殿! お春は切ない。切のうござりまする」
お春はいつか八弥を広忠と錯覚さっかく しているらしい。顔いっぱいにこび をたたえて、ひざに乗せた上半身を雌猫めすねこ のようにこすりつけた。武骨な八弥はそれが何であるかを知らなかったが、母親にはあらわに分る愛撫を待つ女の姿。
「八弥どの、お情けじゃ。な、今もうちに頼みますぞえ」
あえぎながらそう言うと顔をそむけて、よろめくように部屋を出た。
「これ、お春、なんとしたのだ」
「殿 ──」
「わしが殿に見えるのか。これ・・・・」
「この命、お春は殿にささげましたものを」
「あ ──」 と、八弥は突き放しかけて、思い直したようにまた抱いた。武骨な八弥にも、お春の錯覚が分ったのだ。
ふいに哀れさが胸いっぱいにあふれて来た。
(そうだ。錯覚されたままで斬ってやろう)
「お春・・・」
「はい」
「外へ出よう。外はよく晴れているぞ」
うそであった。この部屋を血でけが すまいと、いまにもしぐれそうな縁から庭へお春の履き物を揃えてやった。
「うれしい」 とお春は少女のように八弥の胸にもたれて庭へ立った。
「ごろう じませ。世は春でございます。まあきれいないっぱいの桜」
「うん、桜がな・・・・」
暗澹としぐれかかった空を見上げて八弥はいくどもうなずいた。
さくらどころか七草の色彩すらもあたりになかった。隣につづく月光庵の墓地の卒塔婆そとば が寒々とすすきの間に見えかくれしている。
ハラハラと落ち葉が風に散って来た。
お春はその中を嬉々と歩いた。
「あれは何でございましょう。美しく着飾った小姓たちは」
「あれか・・・・・あれは墓じゃ」
「あそこへお供しましょうか。あれ、あのように小腰をかがめて迎えている」
「それがよい。そうしよう。お春 ──」
「はい」
「そなたわしが生命をくれと申したら、くれるであろうな」
「はい」
八弥がそっと刀の柄に手をかけると、お春は何を思ってか、
「差し上げまする、殿・・・・さ、このあたりでお切りなされませ、お春はしあわせでござりまする」
落ち葉の上にぴたりと坐って、首をさしのべて合掌した。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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