「ホホホ・・・・」 突然お春は笑いだした。 八弥を見つめている眼が水を含んで熱くぎらつき、ふいに呼吸がはずんで来た。 どうやら狂った女の体内で何ものかに火のついた様子だった。 「また殿がお戯
れを・・・・」 「戯れではない。殿はたしかに狂われた」 「殿が狂われたなどと、では・・・・あなたはどなたなのじゃ?」 「わしは八弥じゃ。わかるであろう」 「ホホホ・・・・」
と、お春は、 「殿は、いつもお春と八弥の仲をやかれる。殿! お春は切ない。切のうござりまする」 お春はいつか八弥を広忠と錯覚
しているらしい。顔いっぱいに媚
をたたえて、ひざに乗せた上半身を雌猫
のようにこすりつけた。武骨な八弥はそれが何であるかを知らなかったが、母親にはあらわに分る愛撫を待つ女の姿。 「八弥どの、お情けじゃ。な、今もうちに頼みますぞえ」 あえぎながらそう言うと顔をそむけて、よろめくように部屋を出た。 「これ、お春、なんとしたのだ」 「殿
──」 「わしが殿に見えるのか。これ・・・・」 「この命、お春は殿にささげましたものを」 「あ ──」 と、八弥は突き放しかけて、思い直したようにまた抱いた。武骨な八弥にも、お春の錯覚が分ったのだ。 ふいに哀れさが胸いっぱいにあふれて来た。 (そうだ。錯覚されたままで斬ってやろう) 「お春・・・」 「はい」 「外へ出よう。外はよく晴れているぞ」 うそであった。この部屋を血で汚
すまいと、いまにもしぐれそうな縁から庭へお春の履き物を揃えてやった。 「うれしい」 とお春は少女のように八弥の胸にもたれて庭へ立った。 「ご覧
じませ。世は春でございます。まあきれいないっぱいの桜」 「うん、桜がな・・・・」 暗澹としぐれかかった空を見上げて八弥はいくどもうなずいた。 さくらどころか七草の色彩すらもあたりになかった。隣につづく月光庵の墓地の卒塔婆
が寒々とすすきの間に見えかくれしている。 ハラハラと落ち葉が風に散って来た。 お春はその中を嬉々と歩いた。 「あれは何でございましょう。美しく着飾った小姓たちは」 「あれか・・・・・あれは墓じゃ」 「あそこへお供しましょうか。あれ、あのように小腰をかがめて迎えている」 「それがよい。そうしよう。お春
──」 「はい」 「そなたわしが生命をくれと申したら、くれるであろうな」 「はい」 八弥がそっと刀の柄に手をかけると、お春は何を思ってか、 「差し上げまする、殿・・・・さ、このあたりでお切りなされませ、お春はしあわせでござりまする」 落ち葉の上にぴたりと坐って、首をさしのべて合掌した。
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