八弥はお春を斬る前に、何か楽しませてやりたかった。 武骨一偏のこの男がそんな気持ちになったのも、彼の心にすがるものがなくなったからであろう。 彼は今日まで
「忠義 ──」 だけを三河者の根性として見つめて来た。誰にも劣らぬ純一さで、広忠にまごころの限りをささげて幸福を感じてきた。 戦場ではすすんで死地へ赴いたし、お春を取られて恨む気さえわかなかった。広忠は彼にとって物欲や恋よりもはるかに高価な生涯の対象だった。 ところがそれに報
いられたものは、何であったろうか。 彼は長屋を追われ、しばらくは出仕におよばぬ旨を言い渡された時も、その裏に広忠の憎しみや警戒があろうなどとは思いもよらなかった。 密かに広忠を恨んだのは、田原の戸田弾正
少弼 との間にただならぬ風雲のかもし出されている時に、その戦陣へ加われないことの不満であった。しかしその不満の裏にすら広忠のいたわりを感じ取っていたのである。 先年の安祥
攻めの負傷以来、とかくすぐれぬ健康を、殿は心にかけられている ── そう思っていたのだが、狂ったお春を見ているうちに粉々に砕けていった。 お側
をしりぞけられたのは、佐久間九朗衛門の刺客であろうなどと、彼にとっては思いもかけぬ疑いのためであり、お春を彼に返すといったのは、今になってみると、自分の心を試すためではなかったかと思われる。 広忠はお春の屋敷を、そのまま八弥にくれると言った。その裏に、ある種の秘密を知ったお春を八弥がそうさばくかで彼の本心を探ろうとする底意地悪さが感じられる。 疑うことを知らぬ代わりに疑われることほど心外なことはなかった。 しかもその心外さが、狂ったお春への処置でいっそう切なく彼の心をかき乱した。 お春の広忠を慕う心は、八弥が広忠に捧げてきた純情と同じらしい。それなのに広忠はお春を遠ざけ、お春から子を取り上げて逆上させた。 そしてさらに、お春の身辺に監視をつけ、狂ったものの口からもれる秘密をおそれて殺させようとする・・・・ その空気は八弥も感じていたが、伯母に言われるまでは、わが手で殺そうとの決心はつかなかった。かえって自分が死にたくなった!
と嘆きつづけて来たのである。 しかし今は覚悟も決めた。自分の手にかけることが、この狂った肉親への何よりの引導だと思えて来た。 「お春・・・・」
と呼ぶと、 「あい」 お春はまたあどけなく八弥を見上げた。 「殿はな、気が狂われて、そなたをお側におけぬのじゃ」 「お側におけぬと・・・・田原御前ではのうて、殿が・・・・申されてか、八弥さま?」 八弥は、こくりとうなずいて、 「殿はな、そなたがもういらなくなった。それでこの八弥にやろうと言われる。そなたは八弥の妻になれるか」 できたら妻で殺したいと、それは八弥の未練らしい。お春は息をひき、眼を見張ってじっと八弥をみつめだした。
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