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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/23 (土) 恋 慕 し ぐ れ (三)

八弥は伯母を振り返り、
(やつれたもの)
と、胸が痛んだ。容姿は於大おだいかた に生き写しでも、お春と於大では背筋に通る気性の強さは比ぶべくもない。その同じ弱さが伯母にも哀れにしみついていた。
「折り入っての話とは?」
八弥がお春の肩に手を置いたまま、暗澹あんたん とした面持ちで声をかけると、伯母は怖いものを見るまな ざしでお春の顔をのぞき込んだ。
お春はいつかまた手をのばして八弥のひげをまさぐったり、着物の襟をもてあそんだりしている。
「八弥どの・・・・この伯母の頼みじゃ。おぬしの手で・・・・」
そこで急に歯をくいしばって肩をふるわせ、
「・・・・殺してたもれ」 と小さく早く言ってのけた。
「えっ・・・・ころしてと!」
伯母はうなずいて、またお春の顔をのぞき、
「近ごろ、この家のまわりに、時々うさんな者がうかがい寄って来るゆえにな」
「何しに来ると思われる、伯母御おばご は」
「知れたこと。お春が口走る・・・・他聞をはばかるお殿さまの言葉をじゃ」
うなずく代わりに八弥はそっと眼を閉じた。
(そうか。そうしたこともあったか・・・・)
「時々口走ることの中に、空怖ろしいことがある」
伯母はまた声をおとしてひとりごちた。
かみ 和田わだ のご一族、松平三左衛門さまに謀反むほんきざ しあれば、内々に斬って捨てよ、などと口走る・・・・そのようなことを口走る者をなんで無事に済まそうぞえ」
「・・・・」
「他人の手にかかる前に、そなたの手で・・・・なあ八弥どの」
八弥は眼を開くのが恐ろしかった。律儀一方の伯母であった。その伯母がこうしたことを言い出すまでの苦悩が骨に通って来る。
「おばはな・・・・おぬしとお春が夫婦みようと になって、仲よう暮らす日を待ったが、あきらめました。おぬしが斬らねば他人に斬られる。おばにはそれがはっきり分る。ばあ八弥どの」
「・・・・」
「なあ八弥どの・・・・」
母の言葉が耳に入ったらしく、お春は伯母のあとにつづいて、
「連れて行って」 と、また甘えた。
「御殿で、殿がお待ちかねじゃ。殿はな、このお春が、この世で一番好きじゃと仰せられた。さ、連れてって、八弥さま」
「伯母御!」
と、八弥は顔をそむけて、
「わしにもはじめてこの世の仕組みのむごさが分った」
「頼みまするぞえ、八弥どの」
「わしも、お春を他人の手にはかけとうない」
「わかってくれるか。おばの気持ちが」
「わかった。わかった。わしの手で、ひとまず浄土へ送り届けて、来世はなあ伯母御、お春をわしは誰のも渡さぬ」
ふるえる声が叫ぶようになったと思うと、片目八弥はかっと一眼を見開いて、ボロボロ涙を落としていった。
お春はまた歌うように、
「おお、殿のお出でじゃ。これ、はよう茶湯を持たぬか。これ・・・・」
八弥のひざをゆすって母に言った。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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