お春は眼の前になにか幻覚を見ているに違いない。肩から着物がぬげかかると、こんどはいそいで帯をときにかかる。 「これッ、これッ・・・・何とするのだ」 片目八弥はうろたえてお春の手を上から押さえて、腰の肉の柔らかさに、いっそう切なくうろたえた。 「なんでとめるのじゃ、八弥さま。そなたはこの春をうらんでか」 「何を言うのじゃ。わしはそなたの兄・・・・そうだ、兄のつもりでいたわっているだけじゃ」 「と口先では言いながら、その実、春と殿とを恨んでいる。あの片目がよくそれを語っていると殿がわたしにおっしゃった」 「なに、殿がそのようなことを・・・・たしかい言ったか」 ぐっと怒りをかり立てられて問い返すと、 「おお、いいにおい・・・・桜の香じゃ。湯殿いっぱいに花の香じゃ」 狂ったお春はまたばたばたと八弥の胸の中で羽ばたいた。 「そうだ。狂っているのだ。狂ってなあ」 「だれが?
春は狂ってはいませぬぞえ」 「そうだ、しなたは狂っていない。狂っているのは殿なのだ」 「殿は狂いなされたか。八弥さま」 「おお・・・・」
と答えて、ため息して、 「たしかに、お狂いなされたわ」 「どうして?」 いつかまたぴたりと坐って、ひざにすがるお春のひとみは、幼い日のままごとの顔であった。それを見ると、八弥ののどは山鳩に似た嗚咽
につまった。 「殿はな、そなたやわしのような忠義一途
の者の心まで見えなくなるほど狂うてしもうた」 お春はこくりとうなずいて、そっと八弥の疎髯
に生えたおとがいに手をのばした。 「その証拠に、田原御前などのごきげんをとりくさって、とうとう若君をさらわれた。罰じゃ。狂った罰じゃ」 「ほんに堅いひげじゃなあ」 「狂っているゆえ、近ごろの殿のすること、ひとつとしてそのまま通ることはない。そうか、わしが恨んでいるなどと殿はそなたにもらしたか」 お春はこくりと無心にいなずいた。 「お前は、広瀬の佐久間からまわされた刺客かも知れぬゆえ、この春に油断のう監視せよと仰せられた」 「なにッ、この拙者を敵のまわし者と・・・・」 「八弥さま」 「う・・・・そうか」 「申し開きは、この春がいたそうほどに、さ、殿に会わして下され」 「よしよし、いつかきっと会わしてやる」 「いつかではいけませぬ。今すぐに!
さ、八弥さま」 だが八弥はお春の肩に廻した腕をとかずにじっと虚空
をにらんでいた。狂っているお春の言葉とは思いながらも、これほど信じて仕えてきた広忠に、そんな疑いをかけられていたのかと思うと、根が一徹者だけに腹の底の埋
ずみ火がおこりだしたような気持ちであった。 そこへふすまを開けて、お春の母、八弥の伯母が入って来た。 「八弥どの・・・・わたしはこなたに折り入って頼みがある・・・・」 血の気のない顔で、お春をはばかりながら伯母は言った。
|