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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/23 (土) 恋 慕 し ぐ れ (二)

お春は眼の前になにか幻覚を見ているに違いない。肩から着物がぬげかかると、こんどはいそいで帯をときにかかる。
「これッ、これッ・・・・何とするのだ」
片目八弥はうろたえてお春の手を上から押さえて、腰の肉の柔らかさに、いっそう切なくうろたえた。
「なんでとめるのじゃ、八弥さま。そなたはこの春をうらんでか」
「何を言うのじゃ。わしはそなたの兄・・・・そうだ、兄のつもりでいたわっているだけじゃ」
「と口先では言いながら、その実、春と殿とを恨んでいる。あの片目がよくそれを語っていると殿がわたしにおっしゃった」
「なに、殿がそのようなことを・・・・たしかい言ったか」
ぐっと怒りをかり立てられて問い返すと、
「おお、いいにおい・・・・桜の香じゃ。湯殿いっぱいに花の香じゃ」
狂ったお春はまたばたばたと八弥の胸の中で羽ばたいた。
「そうだ。狂っているのだ。狂ってなあ」
「だれが? 春は狂ってはいませぬぞえ」
「そうだ、しなたは狂っていない。狂っているのは殿なのだ」
「殿は狂いなされたか。八弥さま」
「おお・・・・」 と答えて、ため息して、
「たしかに、お狂いなされたわ」
「どうして?」
いつかまたぴたりと坐って、ひざにすがるお春のひとみは、幼い日のままごとの顔であった。それを見ると、八弥ののどは山鳩に似た嗚咽おえつ につまった。
「殿はな、そなたやわしのような忠義一途いちず の者の心まで見えなくなるほど狂うてしもうた」
お春はこくりとうなずいて、そっと八弥の疎髯そぜん に生えたおとがいに手をのばした。
「その証拠に、田原御前などのごきげんをとりくさって、とうとう若君をさらわれた。罰じゃ。狂った罰じゃ」
「ほんに堅いひげじゃなあ」
「狂っているゆえ、近ごろの殿のすること、ひとつとしてそのまま通ることはない。そうか、わしが恨んでいるなどと殿はそなたにもらしたか」
お春はこくりと無心にいなずいた。
「お前は、広瀬の佐久間からまわされた刺客かも知れぬゆえ、この春に油断のう監視せよと仰せられた」
「なにッ、この拙者を敵のまわし者と・・・・」
「八弥さま」
「う・・・・そうか」
「申し開きは、この春がいたそうほどに、さ、殿に会わして下され」
「よしよし、いつかきっと会わしてやる」
「いつかではいけませぬ。今すぐに! さ、八弥さま」
だが八弥はお春の肩に廻した腕をとかずにじっと虚空こくう をにらんでいた。狂っているお春の言葉とは思いながらも、これほど信じて仕えてきた広忠に、そんな疑いをかけられていたのかと思うと、根が一徹者だけに腹の底の ずみ火がおこりだしたような気持ちであった。
そこへふすまを開けて、お春の母、八弥の伯母が入って来た。
「八弥どの・・・・わたしはこなたに折り入って頼みがある・・・・」
血の気のない顔で、お春をはばかりながら伯母は言った。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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