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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/23 (土) 恋 慕 し ぐ れ (一)

「殿に会いたい。殿に会わせて・・・」
お春がひざにすがってくると、
「おれは死にたい。死なしてくれ」
と、片目八弥はつぶやいた。
「え? 何といわれたの、八弥さま?」
「何も言わぬ。わしはな、そなたの好きなことなら、何でもかなえてやりたいといっているのだ」
「そんなら殿と会わして下され」
お春はうつろに目をすえていきなりすっと立ち上がると、
「おお、殿がお呼びじゃ・・・・お湯殿で」
そのまま部屋を出ようとする。八弥はそのすそをぐっとひざで押さえて、声より先にポロポロ泣いた。何を言ってよいのかわからなかった。
お春がお部屋入りと決まるといっしょに、広瀬から城下の能見のみ に移って来たが、家族といってはその母だけ。
それが田原御前との確執唐、人をつけられて母のもとに監禁された。
田原御膳の侍女のかえで が気づいたとおり、そのころお春は妊娠していた。
片目八弥は、その胎児だけは殿の血筋として、お春の手元で育てることを許されるものと思っていた。
ところが、それも裏切られ、生れ落ちた翌日に、嬰児えいじ はいずれかへ連れ去られ、お春には死んで生まれたと告げられた。
お春の希望も、おそらくその児にあったに違いない。いや、その児を通じて悲しい思慕のきずなにたよ るお春らしかった。
お春はいつまでも血がおさまらず、とうとうそのまま狂っていった。
八弥はそのかよわい女の神経も歯がゆかったが、それにも増して殿の無情がうらめしかった。
「── 八弥、お春はそちにつかわそう」
お春の狂乱を広忠の耳に入れる機会のないうちに、広忠の方から八弥を呼んで、
「── もともとお春はそちの許嫁者いいなずけ であった。改めてそちに返そう」
八弥はそれが主君でなかったら、こぶし を固めてその横面をしたたか張ったに違いない。これほど残酷な、これほど男の心を無視した言葉がまたとあろうか。
殿なればと、歯を食いしばって縁を断ち、わざわざおそばへあげたお春。
「── 命にかけてもお愛し下され」
一世も二世もと念を押したい我慢の上にあぐらをpかいて、じっと悲しさに って来たのだ。それなのに、あらぬうわさをたて にしておそばから退しりぞ けたばかりでなく、狂うほどの相手の思慕にも心づかず、こんどはそちの妻にと言う。
それだけではなかった。すぐそのあとで戸田親子の竹千代横奪が報ぜられ、そのために駿府の今川義元は、直ちに兵を出して田原城を攻めるという。むろん、岡崎からも出兵── と思っているとき、
「── 当分、出仕に及ばぬ。お春との婚儀の後は、お春の屋敷をそちに与える」
思いがけない沙汰で城内の長屋から追われてしまった。
「これ・・・・待たぬか、待ってくれ」
泣きながらとどめる八弥の眼の先で、お春ははげしく身をもんだ。そのはずみに、すらりと肩から着物はぬげて、まびしいはだ が光って来る。
「はなして、殿がお呼びじゃ。いっぱい花のもりこぼれるお湯殿で・・・・殿がお呼びじゃ」

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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