与三左衛門はちらりと輿の中を見た。両側からはまだコ千代と三之助が、小さな顔にいっぱい緊張をみなぎらせて、さしつけられた弓張をにらんでいる。 中は暗かったが、そこに竹千代はひっそりと坐っている。まだ四年余りしかこの世の呼吸をしていない幼児だったが、べつにものおじした様子もなければ、取り乱して騒ぐ気配もない。 あるいは眠っているのではなかろうかと思うほど静であった。 (この人質が尾張からも狙われていた・・・・) そう思うと金田与三左衛門は急に息が苦しくなり、熱いものが雨に交じって頬をつたった。 (そうだ。ここで争うても勝ち味はない。この場は彼らの言葉をいれて、ひとまず尾張へお供するが道かも知れぬ) わるく騒いで、もし幼君まで殺すようなことがあってはそれこそ一大事だと思うあとから、しかし欺かれた口惜しさがじりじりと体を焼いてくる。 「どうじゃ。まだ分別つかぬか」 宣光に言われて、与三左衛門はまた吠えた返した。 「つかぬと言ったら何とするのだ」 「くどいぞ与三左。そちを切っても竹千代は尾張へ送ると言っているのだ」 「尾張へ送って何とするのだ」 「知れたこと。大切な質じゃ。その質がなくては織田信秀、松平党を信じ得まい」 「もう一度たずめてやる!」 いつか太刀の切っ先を垂れて、与三左衛門はまた濡れた全身をふるわした。 「質を尾張へ送ったとわかったら、今川方ではただはおくまい。今川と松平党の合戦になったら何とするのだ」 「その心配はまずあるまい。松平党では、質をさらわれたのだと立派に言い開きはできるはずだ」 「よしッ」 と、与三左衛門は叫んだ。何のためにそう叫んだのかわからなかったが、この頑固一徹な三河者には、もうこれ以上の問答は耐えられなくなったに違いない。 (竹千代さまは殺されぬ・・・・) それだけわかれば、彼は彼の意地を立派に貫いて見せたかった。 「お身たちはもうよい。竹千代さまのおそばを・・・・」 離れるなという声より先に、両側の腰の戸をぴたりと閉めた。 「あつ!」 と五郎政直が叫んだのは、輿の戸を閉める否や、金田与三左衛門は、いきなり太刀を逆手
に持ってその上へわれとわが腹をたたきつけるように突き立てていったからであった。 人々は声をのんだ。このような壮烈な立ち腹
は見たことがない。 「見・・・・見・・・・見ろ!」 と、叫んで与三左衛門は地べたへついている柄頭
を右手ではね上げた。太刀は深く腹を貫き、柄頭を地面から離したとたんに彼の体はよろよろとよろめいてドッと砂の上に倒れた。 すそからしたたるしずくが見る間に砂をそめ、与三左衛門の顔は眼ばかりになった感じで宣光に向けられた。 「こ・・・こ・・・これが、松平党の・・・・心意気だ!」 いきなり太刀を腹から抜いた。そして今度は切っ先をのどにあて、がばっとその上へ首を投げた。
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