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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/22 (金) 潮 見 坂 (六)

「待てッ」
短い叱咤しった とともに、おどりかかった五郎の刀をパッと脇から手刀で叩き落した者がある。
兄の宣光ではなくて、いつか輪の前に出ていた熊野屋敷の波太郎だった。
しかし波太郎はそれ以上には何も言わず、すぐまた宣光に眼まぜした。宣光と波太郎の間には、既に何か打ち合わせが済んでいるのに違いない。
「与三左 ──」 とまた宣光は相手の太刀先に一歩近づき、
「いつかそちにも分かる時があるであろう。竹千代を今川家へ送ることは、松平党が自滅の道へ踏み込むことだと気がつかぬか」
「気がつくものか。われらは主命で動いているのだ」
与三左衛門は体をふるわしてわめき返したが、宣光はひるまなかった。
「われら小党が、この物騒な世で生残る道はただ一つ、今川と織田のいずれが勝つとも見分けかねるよう、両者の勢力の均衡きんこうはか ることじゃ。心をおちつけて聞いてみよ。両家のいずれが勝とうと小国小党はみなその勝者に踏みにじられる。この道理がそちには分らぬか」
「わかるわからぬは余計なこと、主命に背いての理窟遊びは松平党のせぬことじゃ」
「そこで生きる道を申し聞かそう。戸田、松平、水野と三つの小党が同盟を結んでな、いざ両者が衝突するとなったら、いずれへも味方せずにいることじゃ。この三党で見方をせねば、いずれも必勝は帰し難い。必勝を期しがたければ戦いはなくて済む」
「そ・・・そ・・・それがどうしてできる。夢を見るな。水野はすでに織田家の味方。戸田もこれではあやしいもの。わが主君が、そのような敵の計略になんでのめのめ乗るものか」
「そのことならば心配するな。そこにおられる竹之内波太郎どの、竹千代を尾張へ送った後で、三党の同盟、見事結ばせて見せると言われているのじゃ」
「なに、竹之内波太郎・・・・何者だ。それは」
波太郎は笑いもしなければ激しもしないで、
碧海へきかい 郡の熊の若宮・・・・それを、そちは存じおらぬか」
「なに、熊の若宮」 与三左衛門の眼が、笠の下のつややかな波太郎の前髪にそそがれた。知っている眼であり、おどろいている眼であった。
「おぬしがそこの当主かッ」
波太郎はこくりとうなずいた。
「おぬしはいつから織田信秀の家臣になった。おぬしの祖先は南朝方の尊貴な身分と聞いている。それが織田家の海賊にいつなった?」
「与三左 ──」 と、また宣光があとを引き取った。
「水野も松平も、戸田も、一つになって当たらねば、いずれはどちらかに滅ぼされる。どうじゃ。ここで刃向うても詮無いこと、竹千代に付き添ってひとまず尾張へ渡り、幼君の行く末を見届ける所存はないか」
「ない! と言ったら何とするのだ」
「やむないことだ。切って捨てる」
「うぬッ」
金田与三左衛門はもう一度キリキリと歯をかみ鳴らしたが、しかしそれは以前の激しさとは比較にならぬ弱さだった。もう雨は与三左衛門と宣光の背筋までしっとり濡らしていた。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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