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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/22 (金) 潮 見 坂 (一)

時雨しぐ れたままで日は暮れかけていた。短檠をささげて来た侍女が、足音もたてずに出てゆくと、戸田弾正少弼康光は、背を丸めて敷居しきい ぎわのわが子五郎政直まさなお を差し招いた。
「無事に着いたかな?」
五郎はこくりとうなずいて、
「父上、これは戦になりますなあ」
と、突然言った。父の康光はそれを、竹千代奪取の時のことと解したらしく、
「そのようにたくさんの人数がついてきたのか」
五郎は気短らしく首を振った。
「尾張へ届けてからのこと。竹千代を・・・・」
「なに、小田殿に竹千代を渡してからのことか。そんな心配はまずあるまいて」
「なぜないと言い切れまする」
「今川義元は、甲斐かい武田たけだ と舅のことでもめている。織田どのは美濃みの斉藤さいとう 道三どうさん がうるさいところだ。その間にこちらもひとつ手を打つわ」
「その打つ手を五郎にお聞かせ下され」
「広忠の叔父の蔵人くらんど 信孝、それに松平三左衛門とあん じょう じょう の織田信広さま、これがしめし合わせて兵を挙げるとき、こちらも岡崎を攻め立てる。吉田よしだ の残党は つであろうし、いざとなれば尾張の援兵もやって来るわ。そうなれば、東三河に今川義元の歯は立つまい」
康光は心からそう信じているらしく、丸いおとがいをなでて眼を細めた。五郎は首をかしげて考えた。兄に言われると不安になり、父に説かれるとその気になる。康光はそのまど いを吹き払うように明るく笑った。
「その時のことなど、今から心をわずらわすな。それより竹千代の一行は無事に潮見坂へ入ったのか」
五郎はこくりとうなずいた。
「して、警護の数は?まさか今川家よりの申し入れを越えてはいまい?」
父に尋ねられて、五郎はまたこくりとし、
「そばご用の小姓七人、いずれもまだ話にならぬ小童こわっぱ ばかり」
「子供も事など聞いてはおらぬ、潮見坂まで護衛して来た大人おとな のことじゃよ」
「たしか二十一人。この方は兄上が、着くと同時に別の宿舎へ案内したが・・・・」
康光はまた微笑して、
「そうか。それが聞きたかった。よしよし、それで万事うまくゆくであろう。そなたすぐに引き返して、竹千代どのに万一のことがあってはならぬと、わが家の者でそのやかた を取りまかせよ」
「父上」
「なんじゃ?」
「岡崎の姉上は、広忠めに切られますな」
康光はこんどは声を立てて笑った。
「そなたはそれを案じて、うかぬ顔をしていたのか。ハハ・・・・心配ない。心配ないぞ」
康光はぐっと上体を起こしてあたりを見まわし、
「考えてもみよや五郎、織田殿へ渡す人質は竹千代一人。あとに掛け替えのない粒選りの子倅どもが残っている。それがわが手にある限り、広忠はお新喜を切れるものではないわ。そのへんのことに手抜かりがあるものか。さ、そなたも早く参って兄上の手伝いをせよや。わしも用意を整えておかねばならぬでな」
そういうと、パンパンと手を鳴らして侍女を呼んだ。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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