〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/04/08 (金) モ ー ツ ァ ル ト (四)

○身代わり愛コンスタンツェへの新たな愛

モーツァルトの心は次第にアロイージアからコンスタンツェへと移っていった。1781年5月16日の父宛の手紙は、アロイージアへの失恋の痛手から立ち直って、自分の気持ちを見つめ直すようになったのを見ることが出来る。
「ランゲ夫人 (アロイージア) の場合は、僕は馬鹿でした。それはそうに違いありません。惚れている時は人は何にでもなるのです。でも僕はあの人を本当に愛していました。そして僕の感じでは、あの人だって僕にまだ無関心ではありません」
既に結婚して人妻となっているにもかかわらず、モーツァルトは彼女に心惹かれ、また彼女だって自分に気があるかもしれないと思う純情さがこの手紙から読み取れる。それと同時に何か心の切り替えのようなものを感じ取ることが出来る。モーツァルトはこの手が物中で、
「ウェーバー夫人にはそのお世話の見合うだけのお返しが出来ません」
と書き記しているように、ウェーバー家から離れることの出来ない自分を語っている。モーツァルトがここまでウェーバー家との絆を求め、コンスタンツェと結婚することになるその動機は、やはりアロイージアあったように思える。
しかし、冷静で、感情ではなく理性によって合理的に物事を判断する モーツァルトの父レオポルトは、 モーツァルトの盲目的な恋愛感情に直感的にある種の危険性を感じ取っていた。そのために、彼はウェーバー家のコンスタンツェとの交際を決して認めようとはしなかった。父に交際の件を咎められた モーツァルトは、その父に、
「今くらい結婚のことを考えていない時はありません。自分は彼女に恋していません」 (1781年7月25日) という手紙を書き送って、コンスタンツェとの交際を隠している。そして父親のこれ以上の問責を回避するために、 モーツァルトはウェーバー家を出るのである。
父レオポルトは、とにかくウェーバー家との結婚には反対で、何としても息子とコンスタンツェ、あるいはウェーバー家との結びつきを絶とうとした。それに対して モーツァルトは、表面上こそ父親に従順なそぶりを見せつつ、その反面、ウェーバー家とコンスタンツェとの結婚に関する不退転の決断を行う。
1781年12月15日父宛の手紙で彼は 「結婚」 の意思を明確に表明する。
「少年の頃から、下着や服など自分の物に気を配ることは一向に慣れていなかったので、自分には妻ほど必要なものは考えられません。・・・・妻と一緒のほうが楽に暮らせると確信しています」
この結婚の意思の宣言は、7月に 「今くらい結婚のことを考えていない時はありません」 と述べたことの正反対のことを述べている。そしてこのように続ける。
「ところで、僕の相手は誰でしょう? それを聞いてびっくりしないでください。まさかウェーバー家の一人ではないだろうって? そうなんです。ウェーバー家の一人です」
そして彼は、その相手がコンスタンツェであることを告白する。この告白は父親からの精神面での独立の宣言でもあった。この手紙の中で モーツァルトは、コンスタンツェは自分にふさわしい女性であることを説得するために、決して美しくはないが気立てがよく、よき妻になり得る人であることを説く。
モーツァルトはウェーバー家から示された結婚誓約書について父親に理解を求めている。1781年12月22日の手紙で、この契約について、「その娘を相手としての僕の良い目論見の文書による保証のこと」 であると説明しているが、この説明は意味不明である。
ウェーバー家では、娘に会い頻繁に同家を訪れ、泊り込んでいく モーツァルトに対して、娘と交際するに際しての一種の法的な約束事を取り付けようとしたのである。
モーツァルトの手紙によると、後見人 (宮廷劇場監査役ヨーハン・フォン・トーアヴァルト) は、この後見人と モーツァルトが文書で約束するまでは娘との付き合いを一切禁止することを告げ、娘のコンスタンツェと交際する際の条件を文書で求めてきたのである。新しい恋人コンスタンツェに盲目的になった モーツァルトは、同じ手紙に 「誰だってその恋人を捨てることは出来るもんですか」 と書いているように、自分の意思を貫く決意を示すのである。こうした モーツァルトの様子に、父レオポルトはますますウェーバー家を警戒する。
彼が結婚の同意を繰り返し求めるのに対して、父レオポルトは決して結婚を許そうとしていない中で、 モーツァルトは結婚誓約書に署名する。この誓約書には、 モーツァルトはコンステンツェと三年以内に結婚することや、もし結婚しない場合は年300グルデンを支払うことが記されたいた (その頃 モーツァルトの年俸は450グルデンであった) 。ウェーバー家が結婚誓約書を用意した背景には、フリードリーンが亡くなって家庭の経済的な問題を抱えており、娘たちを早く嫁がせなければならない理由があった。この結婚誓約書に署名した1782年8月3日の翌日の8月4日、二人は結婚するのである。

「クラシック 名曲を生んだ恋物語」 著:西原 稔 発行所:講談社 ヨリ
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