〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/04/07 (木) モ ー ツ ァ ル ト (三)

○アロイージアへの片思いと失恋

就職口を求めてマンハイムを訪れたモーツァルトは、1778年1月17日の父宛の手紙でフリードリーン・ウェーバーとその娘のアロイージアについて述べている。フリーンドリーンには四人の娘がいた。ヨゼーファ、アロイージア、クンスタンツェ、ゾフィーという四人娘である。モーツァルトの心を捉えたのは、次女のアロイージアであった。モーツァルトは彼女に夢中になり、彼女のためにレチタティーヴォとアリア 『アルカンドロよ、私はそれを告白する』 (K.294) を作曲する。
1778年3月7日の父宛ての手紙にモーツァルトはこのように書いている。
「ウェーバー嬢は確かにそれだけの価値があるのです。僕はお父さんに、僕が最近お知らせした僕の新しいアリアをあの人が歌うのを聴いてもらいたかっただけです」
しかし、モーツァルトはマンハイムでの就職活動に失敗する。そしてモーツァルトは後ろ髪を引かれる思いでここを発って、パリに向かう。アロイージアに深く恋したモーツァルトは彼女のためにあれこれと気配りをした。そのお返しにアロイージアも、パリに旅立つモーツァルトにお礼をする。このお礼をモーツァルトは愛情の交換と受け取っていたように思われる。パリに着いたモーツァルトはアロイージアのお礼について興奮して父に書き送っている。
「ウェーバー嬢は優しい気持ちで、僕の思い出のためにまたささやかな感謝の印として、レースのカフスを二組編んでくれました。・・・・別れる時、みんな泣きました。ごめんなさい。でもそのときのことを考えると、涙が出てくるのです」
パリに着いたモーツァルトはここでも幸運を掴むことは出来なかった。同行した母親の死というとても大きな悲劇を体験しただけでなく、就職活動にも失敗する。少年時代にパリを訪れたときに神童モーツァルトに驚嘆した人々も、青年になったモーツァルトにはもはや関心はなかった。
彼は傷心の思いで故郷に帰ることを余儀なくされる。ザルツブルクへの帰路、父親の命にそむいて彼はアロイージアのいるマンハイムに立ち寄る。しかし、カール・テオドールがバイエルン選帝侯になったことから楽団もマンハイムに移り、ウェーバー一家もミュンヘンに引っ越してしまっていた。
モーツァルトはアロイージアを求めて、さらにミュンヘンのウェーバー家を訪問する。そして満身創痍の状態のモーツァルトは、心の救いを求めるかのようにアロイージアに求愛する。しかしアロイージアは彼の求愛を拒否するのである。前に紹介した従姉妹のベーズレ宛ての手紙はアロイージアへの求愛の直前に書かれたものである。
見事に大失恋したモーツァルトは父親に手紙を書く。1778年12月29日の父親宛の手紙は、自分が今、ウェーバー家に滞在していることを述べるとともに、抑えきれない胸の苦しみを、手紙の最後にこのように書き記している。
「幸せな新年を、今日はこれ以上はとても書けません」 アロイージアから、モーツァルトの求愛を受ける気持ちはないことをはっきりと伝えられ、モーツァルトは絶望の底に突き落とされ、失恋の痛手に泣き明かすのである。
失恋したとはいえ、モーツァルトの心はアロイージアとウェーバー家から離れることは出来なかった。モーツァルトを拒否したアロイージアは1780年に宮廷付き俳優のヨーゼフ・ランゲと結婚し、さらに彼女は歌手としてウィーンで活動を始めていた。
モーツァルトは、ザルツブルクの大司教と決定的な決裂をし、ザルツブルクから脱してウィーンで自由に音楽家として活動することになるが、その時期はウェーバー家がウィーンに移り住む時期とほぼ同じである。
1780年4月に、ウィーンでザルツブルク宮廷音楽家による演奏会が開催され、モーツァルトもこれに出演した。ウィーン滞在中、最初は大司教と同じ所に宿泊していたが、そこを出てモーツァルトはウェーバー家に滞在する。そしてその後、大司教との決定的な決裂が起こるのである。
ウェーバー家に滞在したモーツァルトは、すでにヨーゼフ・ランゲと結婚して人妻となっているアロイージアへも思いをどこかに保ちつつ、三女のコンスタンツェに心惹かれていくのである。事実、1782年にもモーツァルトはアロイージアにアリアを作曲して捧げている。

「クラシック 名曲を生んだ恋物語」 著:西原 稔 発行所:講談社 ヨリ
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