〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/03/30 (水) シ ョ パ ン (三)

○ヴォジニスカとの婚約の一方的解消

ショパンはひどく咳き込んで、喀血をし、1835年12月には 「ショパン重態」 の報がワルシャワにも届いていた。誰もがショパンの健康状態を気遣っていたのは事実であり、すべてが彼の健康にかかっているというテレザの発言は真実である。10月2日の同じくテレザの手紙でもショパンの健康のことが記されている。
「健康にご注意下さい。そうすれば万事がうまくいきます」
この手紙にはマリアからの手紙も同封されている。マリアはショパン家と会えることの期待を素直に語る。
「もうすぐあなたのご家族の方々にお目にかかれ、来年はあなたさまにお目にかかれると楽しみにしております」
ショパンへの手紙で母テレザは、夜11時には就寝することや、オー・ドゴム (ガム・シロップ) を飲み続けることなど事細かに、ショパンの健康を気遣う。そしてマリアからの贈り物として靴を届けさせる。こうした気遣いに対してショパンは必ずしも十分に応えていない面があったのも事実で、テレザは 「私の命令は命にかけても守るといったのに、実は嘘をついているのではと、あなたの手紙を読んで考えました」 と述べて、健康第一の自分の心配が十分に伝わっていないことの腹立ちを表わしている。
そして1837年、テレザが最も心配していたことが起こる。この年の2月、ショパンは重いインフルエンザに罹り、数週間寝込まざるを得なくなったのである。母テレザにしても、ヴォジニスカ家の人々やショパン家の誰もがショパンンの健康を心配しているのに、彼がそれを誠実に受け止めず、病気になったので約束を破っていると見たのである。2月のテレザの手紙は厳しく彼を叱責する。
「あなたには健康が必要なことです。ところがあなたは彼女に対する約束を守らなかったのですね」
この一件は、もともとこの結婚に反対であったヴォジニスカ家にあって、唯一マリアとショパンの感情を汲み取ろうとした母テレザの気持ちを大きく変えるきっかけとなったと思われる。
頻繁に健康を害するものの、自分たちの心配や気遣いを無視して、毛糸の靴下を履こうともせず、深夜の外出を繰り返すショパンの様子を見て、娘をショパンと結婚させることは不可能という判断を下す。
マリアも両親のこの判断を受けて、彼との結婚を思いとどまることになる。彼女がショパンに宛てて出した手紙は1837年夏 (日付はなし) が最後であるが、この手紙の中で彼女はこのように当たり障り泣く、しかし別離の挨拶を送る。
「あなたさまに私ども一家をあげて終生変わらない愛情を抱いておりますことは申すまでもございません。しかも才能の乏しい弟子、幼馴染の私はなおいっそう、そうであることをお信じ下さい。さようなら。ママがやさしい接吻をおくっております。・・・・私たちのことをお忘れなく」
こうしてショパンとマリアとの短い婚約時代と、マリアへの愛は終わった。ヴォジニスカ家とは格式を異にすることも反対の理由の一つではあったが、それ以上に娘を安心して嫁がせることの出来る相手であるかどうかが両親の最大の関心事であったように思われる。喀血や度重なる健康問題、それにもかかわらず奢侈なサロン生活を続ける不摂生を見て、両親は判断を下さざるを得なかったのである。
マリアはショパンとの離別の4年後の1841年、ユゼフ・スカルベク伯爵に嫁ぐ。彼はショパンの名付け親となったフデリック・スカルベクの息子であった。しかし、ここ結婚は幸福ではなかった。その7年後の1848年、マリアは離婚し、彼女は小作人オルピシェフスキと再婚する。その後、彼女は長命で、1896年に77歳でその生涯を閉じている。

「クラシック 名曲を生んだ恋物語」 著:西原 稔 発行所:講談社 ヨリ
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