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2011/02/11 (金) 井伊直弼の生涯と埋木舎 (三)

弘化三年 (1846) 二月、三十二歳の時、直弼は思い出多い埋木舎を出ることとなる。
相続人のいない兄、直亮の養嗣子となったのである。

舟橋聖一著 「花の生涯」 の劈頭は次の文から始まる。
弘化三年二月。江戸表の藩公直亮の直筆が、早飛脚を以って、国許へ伝達された。老職たちが、みな江戸へ召されているので、犬塚外記が開封した。
書面の内容は、衆議の結果、世子は直弼と内定したこと。就いては、即刻、江戸表へ下るよう。但し、仰山な行列は以ての外であるから、なるべく軽装にて、供廻りも少人数たるべきこと。途中、浜松付近で、藩老木俣と行き合うであろうから、万事はその折、面談されたい。
── 喜びのあまり、外記は、城中大廻り縁を、その所謂お墨付きを押戴いたまま、グルグル、廻って歩いた。そして、取るものも取り敢えず、埋木舎へかけつけた。
嘉永三年 (1850) 五十七歳の兄 ─ 養父の直亮死去にともない十一月二十一日、直弼は三十六歳を以って第十三代彦根藩主となって掃部頭と称する。埋木舎での埋もれていなかった心意気と修業がいよいよ花開くのである。感無量であったであろう。
直弼は仁恵思想により立派な藩政を行うのである。論先十カ条を施政の方針を示したが、その中には、 「家老でも不道理のことを申せば正論で押し返してよい。権威を恐れ、追従軽薄の者は不忠の至りである」 とか 「上下水魚の如く和合して父祖の英名を恥かしめないように」 とか 「才学抜群の者は家柄によらず登用する」 こと、さらに 「言論の道を開いて、たとえ国家の大事のことでも遠慮なく思うところを述べること」 など画期的内容も含まれている。
領内巡視も寒暑をいとわず前後九回にも及び領民の困窮を救済した。
此のほどの 旅のつかれも 忘れけり  民すくはんと 思ふばかりに
恵まずで あるべきものか 道のべに  いでたつ民の したふまことを
の歌が示す如く、埋木舎での困窮生活をした直弼であったればこそ庶民の生活がわかったのであろう。
「埋木舎」 ─ 井伊直弼の青春時代 ─ 著:大久保 治男 発行所:高文堂出版社 ヨリ
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