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2011/02/09 (水) 井伊直弼の生涯と埋木舎 (一)

井伊直弼は文化十二年 (1815) 十月二十九日十一代目の城主であった井伊直中が五十歳のときの第十四男して、彦根城中、槻御殿の楽々の間において誕生した。直中は十五男五女の子福者であった、母堂は側室のお富の方、三z中一切三十一歳、美貌の、賢夫人で江戸の人であったが彦根御前と呼ばれていた。
井伊家の祈願所の北野寺で男子の名前を二十ほど選定され、その中より 「鉄」 の字が決まり、 「鉄之介」 と名付けられた。後 「鉄三郎」 と改められた。 「鉄」 とは鍛えに鍛えた鋼鉄を意味し、鉄の意思、鉄の如く強い人柄を願ったのであろう。
不幸にして、五歳の時、生母に死別し、また、十七歳で父とも死別し、両親を失った。青年・鉄三郎は藩の掟に従って、弟、直恭とともに、槻御殿の部屋住にに別れて、第三廓尾末町の藩の公館 「北屋敷」 に移らされた。生活費もわずか 「三百苟」 の捨扶持を給されただけであった。
藩の掟とは、井伊直孝の遺訓であった。武家の長子はその家を継ぐ大事な公達であるが他の庶子建ちは、家を出て他の諸侯の養子となるか、名門の家臣に養われて臣下として井伊家に仕えるか、いずれでもない者は、米三百苟だけ給せられて質素な生活を一生過ごすかの三つの方法しか与えられていなかったのである。
天保二年、直弼十七歳の時、父直中を失った折、長兄・直亮は彦根藩十二代藩主となった。
直弼は弘化三年、公子の身でありながら狭陋の家で、三十二歳になるまで、一婢一僕の質素な書生生活を過ごすことになった。心を石山の月に澄し、眼を琵琶湖の波に楽しみ、当世の関心のない閑居身を終えんとするような日常になりそうであったが、青年よ大志を抱けであろうか、その心は決して埋もれていない、機会あらば立身出世すべく、しばらくの辛抱だという意気込みで、日夜、文武両道、人格の陶冶邁進したのである。
この気持ちをモットーとすべく、直弼はこの公館・北屋敷を 「埋木舎うもれぎのや 」 と号することにし、次の歌にその心を托し、決意を確固たるものとした。

世の中を よそに見つつも 埋木の
     埋れておらむ 心なき身は
このように、直弼は、埋木で埋もれた生活をしているが、この心は決して埋もれていないぞと毎日壁に掛けたこの歌を見て文武両道おののその蘊奥を極めんと修練するのであった。
直弼の埋木舎における勉学は、国学、和歌、俳句、茶道、仏学、座禅、謡曲、楽焼、華道 から 数学、天文学と文化人の側面と、兵学、剣術、槍術、弓術、馬術居合術、柔術、政治、海外事情など武人としての側面の両面とも精通し、実力も相当のものであったことは後に詳述する如くである。まさに、超人、井伊直弼の人格は、この埋木舎時代に形成、昇華せられたのであった。
「埋木舎」 ─ 井伊直弼の青春時代 ─ 著:大久保 治男 発行所:高文堂出版社 ヨリ
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