農協共済の父・賀川豊彦の情熱が、全国の農協役職員と組合員に乗り移ったように、農協共済は大躍進を開始する。 長期共済の保有件数は、二十九年度末二十五万件、三十年度末五十九万件。三十五年度末
(三十六年三月) には四百九十万件になり、五年間でじつに8.3倍の伸び率を示した。この年度の長期共済保有高は生命共済、建物更生共済を合わせて9606億3000万円であったが、そのあとも爆発的に伸び続ける。そして三ヵ月後の六月には、ついに一兆円の大台を突破した。 三十八年十二月には二兆円突破。 四十五年には九兆円に達し、四十八年九月には、ついに二十兆円を突破した。 五十三年度末では長期共済三十一兆円
(うち養老生命二十二兆円) に達する。このほかに短期共済三十九兆円・・・・。 長期共済保有高では、農協共済は保険会社をゴボウ抜きして、国内では第二位、世界では第五位の事業量を誇る保険事業組織に発展している。 昭和三十一年一月十四日、全国共済農業協同組合連合会
(全共連) は、 『農協共済事業五カ年計画』 を策定した。 『三十五年度までに農家の全戸加入。生命共済保有高4000億円、建物更生共済保有高3700億円の達成。1000億円の責任準備金の積立』
という大目標がかかげられた。 この計画策定に先立ち、全共連業務部長の黒川泰一は考える。 「共済事業は躍進を開始したが、全共連はいままで、共済事業を強烈にアピールするポスターを作っていない。五ヵ年計画を期して、それを作ろう」 講和条約の発効によって占領の桎梏から解放された我が国は、戦後制度の見直しが進められていた。農業界でも河野一郎が提唱する
『農業団体再編制論』 の火が噴き上げていた。河野一郎が率いる畜産団体のあり方が台風の目になり、総合農業から畜産部門の独立や営農指導体制の見直しなどが迫られ、農業界は騒然としていた時であった。そんな背景もあって、全共連は、
「農協共済ここにあり!!」 を、全農家にRPする必要もあった。 「さて、名案はないものかな・・・・」 黒川は頭をひねった。 パッとひらめいたのが、恩師・賀川豊彦の顔だった。 ──
賀川先生は、協同組合保険 (共済) の生みの親だ。先生の揮毫を印刷して、全国の農協に配布しよう。絵や写真よりも、農民は感動するはずだ! だが、ふたたび首をひねらずにはいられなかった。 ──
先生に頼んでいいものだろうか!? 賀川に近しい人たちは、賀川の揮毫は喉から手が出るほど欲しかったが、頼んだことはない。誰かが頼めば、 「わたしにも・・・・」
「おれにも・・・・」 と収拾がつかなくなるからだった。賀川自身もそれを知っていた。講演等に行ったとき、止むなく引き受けたときには、宿舎の誰もが寝静まった深夜に起き出し、人気のない部屋で一人で筆をとった。 世田谷区上北沢の賀川宅を黒川が訪れたのは、三十一年一月一日だった。新年の挨拶を済ましたあとで、切り出した。 「農協共済のバックボーンを揮毫してください。農家は先生の言葉を待っています」 「書きますよ。喜んで、書きますよ」 賀川は気軽に引き受けてくれた。 黒川は胸があつくなった。 座敷に画仙紙が広げられた。たっぷり墨を含んだ筆を握って、しばし目を閉じた。 「なんて書きましょうかな・・・・」 やがて筆は白紙に躍った。 はる夫人は居住まいを正して覗き込んだ。 |