〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/02/04 (金) 救国運動としての農協共済 (五)

賀川豊彦が “死の病” に伏す前兆は、神戸から高松へ向かう船中で起きた。すでに一人歩きが出来ぬほどに弱っていたのに、郷里の徳島へ、伝道と講演の旅に出たのだった。
講演は徳島県共済連からの依頼であった。
郷里を目前にしながら、船中から高松のルカ病院へ運ばれた。三十四年の一月六日のことだった。心筋梗塞、肋膜肥厚、心臓肥大など七つの病名が重なっていた。激しく咳き込み、血痰が出た。苦しくもだえながらも、表情は笑いを見せようとした。
「血痰なんか平気だよ。昔はもっといっぱい出たもんだよ」
膿盆の血痰を隠そうとする看護婦にそう言葉をかけた。
春になりいったんは小康を得て、上北沢の自宅に戻った。東京駅に降り、他人の肩にすがって歩く姿に、出迎えの人たちは目頭を押さえずにはいられなかった。
自宅療養が一ヶ月ほどたったとき、肺炎を併発した。呼吸困難、意識溷濁・・・・中野病院に担ぎ込まれる。協同組合病院の病室で、何度となく死線をさまよっては、よみがえった。肉体を超越した。強靭な精神力だけが、生命を支えているようだった。
「伊豆長岡温泉療養所へ行ってみたい・・・・」
死線からさ迷い出た賀川は、強くそれを希望した。長岡療養所の竣工を、賀川は待ち望んでいたのだった。そこでは賀川が体験から信奉いている 「水治療法」 ができる。 「水治療法」 を大衆に及ぼしたいという賀川の願いが、長岡温泉療養所として結実していた。
「行く人も行く人だが、行かせる医者も医者だ!」
そんな声に耳をふさいで、内田三千太郎中野病院院長は送り出している。
はる夫人に抱きかかえられるようにして、賀川は車に乗せられた。孫も一緒だった。これが家族との最後のドライブになる。
長岡療養所には一泊しただけで、どういうわけか、賀川は翌日には電車で帰って来た。
「先生! またどうして?」
内田院長は心臓が止まりそうなほど驚いた。立っているのさえ困難な体で、どうやって電車を乗り継いできたのだろう。
「ともかく、先生の心身と行動には、普通には考えられないものがありました」
内田三千太郎は述懐している。
昭和三十五年四月二十三日、午後九時十分。賀川豊彦は七十二年の生涯を終え “召天” された。上北沢の自宅 <森の家> であった。
波乱の生涯は終わった。巨人は没した。
巨人はすでに昭和二十三年の五月に、伝道生活四十年を感謝する祈祷会の席で 「遺言」 していた。
「協同組合保険 (共済) を実現せよ!」
遺言は実現し、その躍進をみつめながらの “召天” だった。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ