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2011/02/01 (火) 救国運動としての農協共済 (一)

『農協法』 が成立し、共済事業が天下晴れて行われることになったが、 “農協共済” がいかなるものか、組合員はもとより役職員にもよく理解できなかった。 『農協法』 をつくった農林省の人間ですら、よくわかっていなかったらしい。
『農林省による農協法の説明会がたびたび開かれ、私も出席してきたが、その中に出てくる 「共済事業」 について質問しても、それは 「組合員相互のためのなんらかの助け合いを必要とする場合の共済」 というだけの説明に過ぎず、まことにあやふやなものであった』
『砂漠に途あり ── 医療と共済運動五十年』 のなかで、黒川泰一はこう書いている。
こうした状況の中で、いち早く農協共済事業に取り組んだのが北海道であった。農協誕生早々に 『北海道共済農業協同組合連合会』 が組織されている。『全国共済農協連』 が設立認可を得たのはそれよりずっと後の、昭和二十六年一月三十一日であった。
それに先だち 『全共連設立発起人大会』 が開かれたが、出席は19府県にすぎなかった。その時点で実質的な共済事業を行っていたのは、北海道共済連と鹿児島県販連だけであった。実質的とはいえ、鹿児島県販連の共済事業は、組合の建物だけが共済対象だった。農家の建物は対象外にされていたのだから、今考えると、奇妙な共済事業である。
これは農林省にも責任があった。どこまでが農協共済の対象になるのか、農林省の説明もきわめてあやふやだった。全共連の設立を認可するに当たって、農林省は、別紙で次の様な指令書を添えていた。
『農業災害補償及び農協法に基づく共済事業実施上の相互調整についての基本方針 ── 建物共済事業については、農協共済は農協所有の建物・・・・・・・・・・・・ とし、農業災害補償法による共済団体は、原則として農家の所有する建物・・・・・・・・とする。府県における単独共済農協連合会の設立は、さしあたり原則として差し控えるようにする』 (傍点引用者)
いま考えるとずいぶんばかげた見解だが、農林省は大真面目でそう考えていたのである。
こうした状況下では、せっかく生まれた全共連がまともな事務所を構えられるはずもなかった。
農協全国各連合会が同居している、西銀座の菊正ビルの一角が与えられたといえば聞こえはいいが、じつは中二階の物置部屋であった。古机や古書類を地下室に移し、煤払いをしてようやく看板をかかげたが、机も椅子も中古品、中央には北海道で使われていたばかでかいストーブがでんと座った。
初代会長は北海道信連会長の岡村文四郎、専務理事は北海道共済連会長の山中良造、北海道勢がしめた。黒川泰一は業務部長に任命された。
待望の全国共済農協連は誕生したが、四面楚歌の共済事業であった。組合員にも役職員にもよく理解されていない共済事業であった。わけのわからないこの事業をいかに育てていくべきか、共済連幹部は必死だった。
「攻撃は最大の防御なり。我々は反撃しなければ、押し潰されてしまうぞ!」
「反撃の武器は何か?」
「生命共済しかない」
「しかし、豊富な資金力と全国に支店を持つ生命保険会社に、農協が対抗できるだろうか?」
「個々の農協では歯が立たないが、系統の力を発揮すれば対抗できる。単協、県連、全国連の三段階が一体になれば、危険分散や責任保有などの面でも、一流生命保険会社とも太刀打ち出来るさ」
「それの加えて農協独自の機能を発揮させるんだ。利潤追求にかかわる相互扶助。専門の勧誘員はおかずに、役職員が勧誘する。こうすれば保険会社に負けるはずがない!」
議論の末に 『生命共済の実施方針』 が練り上げられた。
「なにはともあれ、農協役員の教育が必要だ。 ── 人事は人なり、だ!」

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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