〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/02/01 (火) 新生日本の旗手として (三)

幣原内閣のもとでは、 『金融制度調査会』 が生まれ、賀川は」その委員に任命されている。協同組合運動にとって、この時の委員就任は貴重な財産であったと言える。
金融制度調査会で賀川が鋭く主張したのが、 「保険業法の改正」 だった。これは戦前からの悲願である。
「保険業務を協同組合に与えるべし」
賀川のこの悲願が全国協同組合大会に提案されたのは、大正十三年であった。しかし医師会や官僚の反対に阻まれ、容易に実現しなかった。保険業法の改正による組合保険の実現が反対派に阻まれ、当分の間困難と考えられたとき、賀川は実に大胆に計画を練り上げ、実行に移している。
「大正生命、日本教育生命、新日本海上火災の三保険会社が経営不振により売りに出されそうだと聞いている。産業組合は一括してこれを買収しようではないか。 ── 産業組合が保険に進出する道は、これしかない」
昭和十五年であった。計画を産業組合の有馬頼寧に見せると、有馬会頭は全国の信連幹部を動かし、この大胆な計画の実行に踏み切った。
三社一括の買収契約は結ばれ、産業組合は手付金まで渡している。
「これで農家も保険の恩恵が受けられるぞ。組合保険ではないが、相互扶助精神を生かした保険業務がやれる」
産業組合関係者は、 「悲願実現!」 と感涙にむせんだものだ。
ところが、 「待った」 がかかった。
「保険会社の買収は、まかりならん!」
島田俊雄農相が発した行政命令であった。
政界、財界が結託し、農相に圧力をかけたのである。
賀川は涙を呑んだ。産業組合も歯噛みした。
このときの涙をぶっつけるように、 『金融制度調査会』 の席上賀川はしばしば熱弁をふるった。
「保険というものは、その本質から見て、共同l組合化されるべきものだ。歴史的に見ても、保険は友愛的または社会性をおびた出発をしている。それを途中から、その純粋な隣人愛的な発生と動機が失われ、資本主義化した。 ── 世界三五か国の協同組合は、保険を取り入れることによって、はじめて自由に大空を飛躍する翼を与えられた。協同組合こそ、この破壊と混乱の中から国を救うものであり、組合に保険を許すことがその基礎となる」
他の委員は耳を傾けた。
保険は金儲けの事業ではない。それ故、営利会社に任せてはおけない。相互扶助の精神にのっとった組合保険にすべきであり、組合保険は 「農を救う基礎である」 と、賀川の熱弁は続いた。
『金融制度調査会』 が政府に答申したのは、二十一年三月三十一日だった。その答申には、 「保険業法を改正して、協同組合保険の道を開くべし」 と盛り込まれた。
賀川の悲願は認められたのである。
『保険業法に基づき、大蔵大臣の監督の下に株式会社及び相互会社の外、保険組合による保険事業の経営を認めることを可とする』
保険業法の改正案も出来上がった。
戦争中とは違う、平和で民主的な日本だ。必ずや法律は改正され、欧米諸国のように組合保険は生まれる・・・・」
二十余年の戦いを振り返りながら、賀川はこみ上げてくる感激を噛みしめた。
ところが・・・・幣原内閣は答申を受けた直後に瓦解した。かわって第一次吉田内閣が登場したが、これも一年そこそこで片山社会党内閣にかわった。片山内閣も一年とはもたなかった。二十三年三月には芦田内閣が登場した。
社会不安を反映した政変の波間に、保険業法の改正案は沈んだままだった。その間にも保険業界の圧力によって、組合保険にかかわる部分の骨は、一本、二本と削り取られていった。
「またか!」
握りしめた賀川の拳が、震える日が続いた。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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