一方、昭和二十二年十一月、農民待望の 『農協法』 が公布されていた。その 『農協法』 では、 <共済事業>
が認められたのだ。 全国の農村には、二万八千五百の農協が生まれる。 組合保険に賭けた賀川の夢は、農協共済という姿で賀川の前にあらわれたことになる。 「組合保険こそ救国の基礎」
を、 「農協共済こそ救国の基礎」 と書きかえられた。 当然のことながら、農協共済に対しても、保険業界の反撃が待ち構えていた。 保険会社の勧誘員は、あわただしく農家をめぐりだした。 「農協が保険の仕事をやるといっても、こりゃあ、危ないですよ。素人に出来る仕事じゃない。三年でつぶれますぞ」 「餅屋は餅屋・・・・保険のことは私たちにお任せ下さい。その方が安心です。せっかく金を出しても、農協なんかいつつぶれるかわかりませんよ・・・・」 農民は
「へえ!・・・・」 と首をひねった。「農協共済」 なるものがチンプンカンプンの農民にとって、保険会社の言い分はまことにもっともに聞こえた。 農民に限らず、農協の役職員でさえそうであった。 生命保険会社は農協にも乗り込んだ。 「やっかいな仕事を自分でやるより、わが社の生命保険の窓口になってくれませんか。農協が農家を団体で加入させてくれれば、それなりの報酬は出しますよ」 こいつの方が手っ取り早い保険業だと勘違いした農協も生まれた。 攻撃は保険会社のほかに、農村内部からも仕掛けられた。 「農業共済は、われわれの方が先輩だ。農協による横取りは許せない!」 『農業災害補償法の基づく農業共済団体』
の言い分であった。 農災法に基づく農業救済は、農協法成立以前に生まれていた。全国の市町村はすでに 『農業共済組合』 が生まれ、県段階では連合会も結成されていた。こちらの共済組合は
「強制設立」 であり 「強制加入」 であった。国が保証し、国が資金を注ぎ込んでいる、いわば官制共済である。 米、麦の主要作物の災害補償からスタートした農業共済だが、昭和二十四年には議員立法で対象が農家の建物にまで広げられていく。こうなると、農協共済と深刻な競合関係が生まれるのは当然だった。 「こっちは、国が後盾の共済だ。親方日の丸の共済だ。それに対して農協共済は、加入脱退自由の、いわば根なし草のような共済だ。どっちが安全か、子供にもわかるはなしではないか」 ここでも農民は、
「へえー・・・・」 と首を傾げた。 生まれたばかりの農協共済は、戦前の医療組合と同じ運命に晒されたのだった。保険業界、農業団体、それらと結託した行政官庁の包囲にあい、その生命は
“風前の灯” のような感があった。 二十三年の五月九日だった。 松沢教会の裏庭では 『賀川豊彦伝道開始四十年並びに還暦感謝祈祷会が開かれていた。 賛美歌のメロディーが流れて、祈祷が行われたあとで、賀川は記念演説をした。宗教的な話が一段落したところで、深い色をたたえた賀川の眼差しが天に向けられた。 「私はこの機会に、みなさんに遺言を述べておきたいと思います・・・・」 会場はしーんとなった。遺言は十数項目あった。その一つが次の遺言であった。 「みなさんに、協同組合保険の実現をお願いいたします・・・・」 黒川泰一は感極まって、両手で顔を被った。 |