〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/30 (日) 新生日本の旗手として (二)

ともあれ “時の人” として大車輪の活躍をする賀川であったが、胸中に燃えたぎっていたのは、協同組合運動に賭けた、戦前からの夢であった。夢というより悲願である。
国破れて、山河あり・・・・大都市に残されたのは、無残な焦土でった。農村には昔ながらの美しい田園風景が残っていたとはいえ、ここも廃墟にひとしかった。戦争は農業生産を支えた技術 (肥料など) を根底から破壊し、敗戦は農民を虚脱状態に落とし込んでいた。
そんな時神田のYMCA前の日本キリスト教団には、復員姿服や満州協和会服の男たちが、焼け跡を踏みしめて集まって来た。
「新しい日本を、協同組合運動で再建しよう。協同組合運動を基礎にして、日本再建をはかろう!」
かって農民運動や医療組合運動や消費組合運動に、情熱の火を燃やした男たちであった。その中には秋田県で医療組合ののろしをあげた、農民運動家の鈴木真州雄もいた。 『野良に叫ぶ』 の詩人渋谷定輔もいた。
「戦争は、産業組合も医療組合も踏み潰してしまった。だが、おれたちの体の中で燃える協同組合運動の火は、消えなかったぞ。 ── これからまた、協同組合運動を再建するんだ!」
協同組合運動再建の話し合いであった。
「私はヨーロッパ諸国を何度か見てきた。どこの国でも、敗戦国を再建したのは協同組合運動であったと、確信を持って言うことが出来る。 ──救国の為に、力を合わせて起ちあがろうではないか」
議長に選ばれた賀川は、熱っぽく説いた。この時の話し合いをきっかけに、組織づくりが始まり、 『日本協同組合同盟』 が発足してのが、昭和二十年十一月十八日であった。会場は新橋の蔵前工業会館で、産業組合の総帥といわれた千石興太郎出席した。
『宣言』 の一節を紹介しよう。
『我等は一騎当千の勇を鼓し、協同組合の旗の下、十人を以って二十人の事をなし、百人を以って千人の事をなさん。これ同士一体とならば難きにあらず』
『日本協同組合同盟』 の主たる事業は、産地直送の生鮮食品を、消費者に供給する仕事であった。
生活協同組合の活動に期待をかけたのだが、竹の子生活を強いられている消費者の生活は、あまりにも苦しかった。漁業組合から魚が直送されても、代金回収は思うように行かず、中央水産業会との間でしばしばトラブルも生まれた。
この時間に立って苦労したのが、 『協同組合同盟』 の中央委員であった鈴木善幸である。
鈴木は中央水産業会の企画部長であった。戦後第一回の総選挙では社会党公認で立候補し、 『協同組合同盟』 も応援し当選したのが、政治家としての第一歩であった。
協同組合同盟はたちまち代金焦げ付きで赤字がかさみ、職員の給料さえ滞るようになると、賀川がポンと百万円を投げ出した。
「この金で、給料を払い、魚を仕入れなさい」
協同組合同盟の会長であった賀川が借りた金であった。当時百万円といえば、今では数億円、いや十数億円位の大金かもしれない。
「ところが、その金で北海道から塩鮭買い付けたところ、金は取られて品物は送られて来なかった・・・・」
そう告白するのは黒川泰一である。パクリ屋にひっかかったのだ。
「賀川先生・・・・申し訳あるません」
業務を担当していた黒川が頭を下げると、
「困難な協同組合の再建のために使ったのだから、本望だい。 ── 借金は、私がコツコツ原稿を書いて返しましょう」
百万円の借金を、賀川一人でひっかぶった。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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