〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/30 (日) 新生日本の旗手として (一)

平和の到来は、賀川豊彦を一躍 “時の人” にした。
東久邇宮内閣は短命だった。二ヶ月余で総辞職したが、その翌日だった。元老尾崎行雄の秘書が上北沢の家を訪ねて来た。
「賀川先生、これは未だ公表出来る段階の話ではありませんが・・・・非公式に先生のご意向を伺いに参りました」
そう前置きして、秘書は次期首相の候補に幣原喜重郎、吉田茂、賀川豊彦の名があがっていることを密かに告げた。首相を引き受けるかどうか、それとなく打診に来たのである。
松沢教会で開く英会話塾の講師選びに飛び回っていた賀川は、その意思のない事を告げた。
「私は代議士製造業にはなるが、代議士にはならない」
という有名なセリフが賀川にはあった。戦前の労働農民党や社会民衆党を組織し、無産者代議士を政界へ送り出した時の言葉である。たとえ首相になってくれと正式の要請があっても、こんなふうに断っただろう。
「私には神に仕える仕事と、協同組合運動があります。総理大臣をやる気はありません」
翌二十一年三月には勅選の貴族院議員に推されたが、議員としては一度も議事堂には入らなかったというエピソードも残されている。戦時中にキリスト教徒として、戦争遂行に止むを得ず協力したという自負の念が、この行動を取らせたとも言える。
さらに忘れてならない活躍の場に、日本社会党結党への参画があった。
「広く同志を募り社会党結成の懇談会を開こう!」 といった文章の呼びかけが、旧労農党や旧社民党の関係者に配られたのは、敗戦の年の秋であった。呼びかけた人は、戦前の無産運動の長老安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の三人である。。会場は新橋の蔵前工業会館だった。松岡駒吉、片山哲、川上丈太郎、加藤勘十、杉山元治朗、西尾末広等約二百名が参集し、日本社会党の旗揚げを協議した。結党は昭和二十年十一月二日、日比谷公会堂で開かれた。片山哲が初代書記長に選ばれ、 『日本社会等バンザイ』 の音頭をとったのが賀川である。
政治活動の場で脚光を浴びた賀川だが、宗教活動や社会活動も精力的に展開していた。 『国民総懺悔運動』 のための東奔西走がそれであり、内閣が替わり内閣参与の役から解放されたあとは、今日は名古屋、明日は大阪と身軽にとびまわった。
あるときは、 「国際的恒久平和」 を説いた。あるときは、 「戦争という暴力行為の愚かしさ」 を説いた。日本のガンジーは生き生きとよみがえった。
どの会場でも、万来の拍手が迎えた。
戦前に常につきまとった 「演説中止!」 という警官の制止も、 「賀川帰れ!」 という聴衆の怒号もなかった。
東京に帰った時でも、ほとんど休む間はなかった。農林省を訪れて、 「国民を飢えから救うための政策」 を提言し、文部省を訪れれば、 「新しい教育のあり方」 について話し合い、厚生省にまわれば 「医療行政について」 助言した。日本政府だけではらちがあかないときには、GHQに乗り込んだ。
「アメリカ国内では、天皇を戦争犯罪人にせよという声があるが、アメリカ政府は天皇制を支持するマッカーサー最高司令官の意見を全面的に支持すると決定した」
そんな重要情報をいち早くGHQから得て、文部省を通じて日本政府に伝えたのも賀川だと言われている。
『国民総懺悔運動』 を提唱した賀川の活躍は、日本国民と、日本国政府と、GHQの間を取り持つ、貴重な仲人役をつとめていたといっても過言ではあるまい。欧米に名の売れたキリスト教徒であると同時に、国際共同組合主義者にして、初めてなせるわざ・・ であろう。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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