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2011/01/22 (土) 平和・戦争・平和 (三)

外相松岡洋右、来栖駐独大使、リッペントロップ独外相、チアノ伊外相が、ヒットラー総統邸で、 『日独伊三国同盟』 を結んだのは九月二十七日だった。日本の国内では、日章旗とカギ十字旗と王冠を描いたイタリア旗の、旗行列の波がねり歩いた。
昭和十六年に入り、日米関係はいよいよ悪化した。四月にドイツ、イタリアを訪問した松岡外相は帰途モスクワに立ち寄り、電撃的に 『日ソ中立条約』 を結んだ。
おなじころ賀川豊彦は 『キリスト教平和使節団』 七名の一員としてアメリカに向かっていた。
風雲急を告げる日米関係の外交上の整理の一助に、というねらいもあったが、使節団の目的はキリスト教団関係の協議であり、戦時体制下の日本のキリスト教団の立場を説明するための渡米であった。
四月二十日にロスアンゼルスに上陸し、そこで教義の他に、各地で会議が重ねられたあと、使節団は帰国したが、賀川だけはアメリカにとどまった。
日米開戦前夜のアメリカでは、当然、排日運動が高まっていた。日本人と見れば、 「ジャップ、帰れ!」 と、怒声が浴びせられたが、賀川だけは別だった。各地から招待され歓迎を受けた。
シカゴの集会に招かれたときだった。
「みなさん、キリスト愛の実現が、真実の平和をもたらす道です。いまこそわれわれは、キリスト愛を忘れてはなりません」
流暢な英語で賀川がきりだすと、聴衆は、国境も民族も忘れて感動した。
アメリカで賀川が平和で友好的な歓迎を受けているときでも、戦争の狂気はますます色濃く日本を押し包んでいた。ABCD包囲陣におびえる日本は、東南アジアに対する侵略の地歩を固めていた。アメリカの対日感情は、賀川の滞米中も時間刻みで高まった。
六月下旬、ニューヨークを訪問したときだった。
ルーズベルトホテルでは、賀川豊彦歓迎の午餐会が開かれた。豪華な食卓に数百人の紳士が並んだが、雰囲気は重苦しかった。
食事がすむと一人立ち二人たち、会場を脱けていく。賀川はいたたまれない気持ちに駆られて、立ち上がった。
「わたしは、こんなご馳走にあずかっても、少しも心が晴れません。神の国は、飲食するところではない、と聖書も教えています。 ── みなさん、日本とアメリカは、一触即発の危機を迎えています。なぜ・・・・なぜ・・・・日本とアメリカの平和の為に、祈らないのですか! 永遠の平和、新の平和の為に、いまこそ祈りましょう・・・・」
賀川の言葉は帰りかけた足を引きとめた。午餐会は祈祷会にかわった。
平和と日米友好を願う賀川の姿は、心あるアメリカ人の心をとらえた。
サンフランシスコの 『日米新聞』 は 『賀川豊彦氏の功績』 と題した社説を掲載している。
『──日米関係の感情が最悪の時に乗り込んできた平和使節の努力と、二ヶ月間旅程をのばして東奔西走し、信仰的立場から、堂々所信を語ってじんすいした賀川の功績は絶大である。一般民衆の日本に対する認識を好転せしめ、キリスト教会に反省を促し、アメリカ人を精神的に督励して日本を見直させ、自己批判をせしめた。彼が両国親善の為に尽くした功績に感謝せざるを得ない』
昭和十六年八月四日、賀川豊彦は龍田丸に乗船し、サンフランシスコを出帆して帰国した。
帰国して四ヶ月たったとき、一通の電報が賀川のもとに届けられた。
『ワタシタチハ ニチベイカンケイガエンマンニマトマルヨウ ニチヤイノッテイマス ワシントン キリストキョウカイ』
電報を捧げ持って、賀川は十字架の前にひざまずいた。
「わたしたちも、祈りましょう。戦争が起こらないよう。日米が平和でありますよう、今日から一週間、連続徹宵の祈祷会を開きましょう」
教会関係者が徹宵祈祷会に入ったのは、十二月一日だった。
その夜ともされたろうそくは、十字架の前で一週間燃え、消えた朝、ラジオからは勇ましい軍艦マーチが流れた。
『大本営陸海軍部発表 ── 帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』
戦争は、理想社会も人間も押し流した。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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