昭和二十年八月十五日。悪夢のような戦争は終わった。平和はよみがえったが、その代償はあまりにも大きかった。 日本のめぼしい都市は焼け落ちた、一千万人の同胞は、住む家も着るものも失った。食べ物さえ失った。何百万人の生命までもが失われた。死んだのは日本の同胞だけではない。アジアの国で、アメリカで、ヨーロッパで、同胞は死んだ。 飢えと虚脱感が東京を被っていた八月二十八日、賀川豊彦は東久邇宮首相から招きを受け、首相官邸を訪問した。 「賀川先生と二人だけで話したいから、誰もこの部屋に入らないように」 首相は人払いをした。 賀川の全身に緊張が電流のように走り、首相はおもむろに口を開いた。 「敗戦、混乱、虚脱、占領・・・・大変な事態です。いま、国民は一切の価値観を失っています。道義は地に落ちたといえるでしょう。この日本の心を救う
“力” がほしいのです。その力を持っているのは、賀川先生、あなたです。その力を、私に貸して下さい」 「・・・・」 「なによりも、外国人への敵愾心と憎悪を、日本人の心から取り去らねば、ポッタム宣言の履行もむずかしくなります。それが出来るのは、あなたです。日本人の心と、世界の人びとの心を知っているあなたに、その懸橋になっていただきたい」 「・・・・」 賀川はうなずいた。 「今の内閣の閣員だけでは、アメリカを納得させることが出来ません。アメリカをよく知る人が必要意です。そこで内閣に参与制度をつくるつもりです。
── 賀川先生、東久邇宮内閣の参与に就任してください。お願いします」 「意のあるところは、よくわかりました。相談するものもいるので、すこし考えさせてください」 賀川は官邸を辞去した。 内閣参与として、なにをなすべきかを、教団関係者にはかったのは、翌二十九日だった。 「往年の
<神の国運動> のような大運動を興し、虚脱している国民を導いていくべきだ」 「いや、それはまずい。キリスト教を前面に出すのは、時局便乗と受け取られて、国民はついてこないだろう」 いろいろな意見が出たあとで、教団主事の木俣敏が提案した。 「この戦争を引き起こしたのも、敗戦という未曾有の混乱をまねいたのも、日本人が・・・・キリスト教徒も含めて全国民が・・・・過去において、偏狭、無知、道義の低さ、無信仰であったがためです。このさい国民運動として
<国民総懺悔運動> を起こすべきです」 「なるほど、それはいい」 賀川は賛成した。 「じつは、東久邇宮首相も、その他の大臣も、 “懺悔”
という言葉を口にされていた。 ── 首相も <国民総懺悔運動> には賛成されるだろう」 この時生まれた <総懺悔運動> は 「一億層懺悔」
という言葉となって日本人の心に染み付き、 “新生日本” の合言葉となった。 マッカーサーが厚木飛行場に進駐したのは、八月三十日であった。この日付で、賀川は、長文の
『マッカッサーへの手紙』 を発表した。その一部を記してみよう。 |