〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/23 (日) 平和・戦争・平和 (四)

昭和二十年八月十五日。悪夢のような戦争は終わった。平和はよみがえったが、その代償はあまりにも大きかった。
日本のめぼしい都市は焼け落ちた、一千万人の同胞は、住む家も着るものも失った。食べ物さえ失った。何百万人の生命までもが失われた。死んだのは日本の同胞だけではない。アジアの国で、アメリカで、ヨーロッパで、同胞は死んだ。
飢えと虚脱感が東京を被っていた八月二十八日、賀川豊彦は東久邇宮首相から招きを受け、首相官邸を訪問した。
「賀川先生と二人だけで話したいから、誰もこの部屋に入らないように」
首相は人払いをした。
賀川の全身に緊張が電流のように走り、首相はおもむろに口を開いた。
「敗戦、混乱、虚脱、占領・・・・大変な事態です。いま、国民は一切の価値観を失っています。道義は地に落ちたといえるでしょう。この日本の心を救う “力” がほしいのです。その力を持っているのは、賀川先生、あなたです。その力を、私に貸して下さい」
「・・・・」
「なによりも、外国人への敵愾心と憎悪を、日本人の心から取り去らねば、ポッタム宣言の履行もむずかしくなります。それが出来るのは、あなたです。日本人の心と、世界の人びとの心を知っているあなたに、その懸橋になっていただきたい」
「・・・・」
賀川はうなずいた。
「今の内閣の閣員だけでは、アメリカを納得させることが出来ません。アメリカをよく知る人が必要意です。そこで内閣に参与制度をつくるつもりです。 ── 賀川先生、東久邇宮内閣の参与に就任してください。お願いします」
「意のあるところは、よくわかりました。相談するものもいるので、すこし考えさせてください」
賀川は官邸を辞去した。
内閣参与として、なにをなすべきかを、教団関係者にはかったのは、翌二十九日だった。
「往年の <神の国運動> のような大運動を興し、虚脱している国民を導いていくべきだ」
「いや、それはまずい。キリスト教を前面に出すのは、時局便乗と受け取られて、国民はついてこないだろう」
いろいろな意見が出たあとで、教団主事の木俣敏が提案した。
「この戦争を引き起こしたのも、敗戦という未曾有の混乱をまねいたのも、日本人が・・・・キリスト教徒も含めて全国民が・・・・過去において、偏狭、無知、道義の低さ、無信仰であったがためです。このさい国民運動として <国民総懺悔運動> を起こすべきです」
「なるほど、それはいい」
賀川は賛成した。
「じつは、東久邇宮首相も、その他の大臣も、 “懺悔” という言葉を口にされていた。 ── 首相も <国民総懺悔運動> には賛成されるだろう」
この時生まれた <総懺悔運動> は 「一億層懺悔」 という言葉となって日本人の心に染み付き、 “新生日本” の合言葉となった。
マッカーサーが厚木飛行場に進駐したのは、八月三十日であった。この日付で、賀川は、長文の 『マッカッサーへの手紙』 を発表した。その一部を記してみよう。

   マッカッサー総司令官閣下
日本は八月十五日敗戦国の烙印を押された。これは厳然たる事実であり、疑うべからざる現実である。しかし陛下の詔書渙発の一分前まで、全国民の戦意は燃えに燃え、陸海空三軍の銃口が一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。この相反した事実が、陛下の御声によって、ピタッと一致して、日本は次の時代へと進行し始めたのです。
   ── 中  略 ──
総司令官閣下
私は率直に貴官に言わなければならぬ。1936年、私は時の大統領から、国賓として渡米を促された。当時アメリカに充満した千六百万の失業者の問題の解決であった。一夕、ウェルズ前国務次官の家に於いての集会で、私は副大統領 (現トルーマン大統領) やホイラー上院議員等と共に談じた。その時私は 「国際協同組合」 を提唱し、彼等の賛意を得たのです。サンフランシスコ会議の三十一の結論、国家の安全保障、国際裁判、国際警察の設立だけでは、日本をはじめ、多くの失業国家を見出すであろう。それだけでは、世界はあまりにも 窄き門になる。武力を解除され、傷ついた上に、尨大な賠償品を要求される敗残の身が、精神的な友好の手のさしのべがなくて、どうして再起できるであろうか。やがては堕落から没落へと落ちてゆくことは必至である。貴官の理想とする新しい世界国家に入ろうとしても、入れない羽目におちいるであろう。
   ── 中  略 ──
総司令官閣下
戦勝国は広い心と思いやりがなけれななりません。日本は今詔書のお示しのままに、立派な世界国家として出発しようとしています。徒に小さい枠の中に幽閉しておくことは、貴官等の理想とはるかに遠い結果を生むでしょう。日本人の陛下に対するこの心情と、人間としての実力をもり育てるならば、日本の新世界奉仕の出発は、よそうより力強く早くなされるでしょう。
閣下の外人収容所に対する給与品の投下物は、正しく浦和に投下されました。しかしそれを受け取った人達は、熊谷の戦災者たちにそれを贈りました。これは何を意味するでしょうか。力で治めるよりも、心でゆくべき千古の真理を示すものです。
願わくば閣下よ、日本人の特質を活かし、新文化、新世界へ邁進する日本に拍車をかけるとも、力の鞭を揮うなかれ、それがサンフランシスコ会議の結果を実現する最も重要な具体的な方法だと信じて止みません。
「この手紙は、敗戦国民の賀川豊彦が書いたものではなくて、世界の良心としての賀川豊彦が書いたものです」
手紙の原稿を渡すとき 「読売報知」 の記者に語っている。
英字新聞 「ザ・ニッポン・タイムズ」 (九月二日付) にも、英訳されてこの手紙は掲載された。
『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ