〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/20 (木) 平和・戦争・平和 (二)

憲兵隊での取調べは毎日行われた。
「賀川さん、アメリカのカレンダーにこんなことを書くことは、あなたは非国民ですぞ!」
「わたしは非国民ではありませんり。日本を愛し、日本人を愛しています」
「あなたは南京で帝国陸軍が暴虐事件を起こしたと、各地で講演しているね?」
「いいえ・・・・わたしはそうした講演はしていません。私の講演は、いつでも “人間愛” を説いているのです。日本人も中国人も、おなじ人間です」
憲兵の前でも、臆せず賀川はキリストの愛を説いた。しだいに憲兵の態度が変わった。人間を愛する心が、 「非国民だぞ!」 とののしっていた憲兵の心にも通じだしたのだった。
「賀川先生・・・・先生が愛国者であることはわかりました」
「賀川さん」 が 「賀川先生」 にかわった。
「しかし、先生が話されていることは、戦時下の国民を惑わすことになります。そのため、止むを得ません」
憲兵は姿勢を正した。
「陸軍刑法第九十五条による流言蜚語の罪で起訴します」
賀川は黙って頭を下げた。
留守宅では、はる夫人が賀川の釈放に奔走していた。元農林大臣の有馬頼寧にも頼んだ。
「閣下は賀川をよくご存知です。日本のため、悪いことをする賀川ではありません。釈放されるよう、閣下のお力添えをお願いします」
「それは重々承知しています。 ── だが、じつは私も憲兵や特高に狙われているんです。血迷った人たちの目には、産業組合関係者までが、非国民に見えるらしい。こまった世の中になったものです」
教会では 『賀川先生釈放祈祷会』 が開かれた。一人の牧師は断食し、釈放を祈り続けた。
「日本のため、世界平和のため、賀川先生を釈放してください。アーメン・・・・」
渋谷憲兵隊から巣鴨拘置所に送られたのは、東京の空をさわやかな秋風が渡りはじめた九月十一日であった。その日、憲兵隊を出る賀川に寄り添った憲兵は、
「規則で予審にまわる者には、手錠をかけますが、それはやめます。そのかわり、申し訳ありませんが、捕縄を使わせていただきます」
賀川の腰にはかたちだけの縄がかけられた。
ところが巣鴨拘置所で賀川を待っていたのは、きびしい罪人の生活だった。
青い着物を着せられ、編笠をかぶせられた賀川は、入所早々からきびしい叱咤に追い回された。
「飯はぐずぐずしないで、さっさと食え!」
「洗面の水は、無駄に使うな!」
「のろのろしていては、散歩にならんぞ。キョロキョロせずに歩け!」
賀川は泣いた。辛くて、くやしくて、泣いたのではない。憲兵が見せた “愛” と、監視が示す “罪” に泣いたのである。泣きながら、祈った。
「パウロは言った・・・・。苦難の生活を通して、毎日新しく死んでいるのだと思えば、人生、苦痛も悩みもすべて余禄である、と。 ── ああ!、われ日々に死す ── われ日々に死す ── 」
戦前んすでに 『賀川豊彦』 の名声は、宗教家、産業組合運動家、作家としてあまねく人口に膾炙していた。その賀川が、陸軍刑法に触れ、巣鴨拘置所に収容されたことは、政府内部では軍部と司法関係者だけしか知らされなかったらしい。
それを耳にしたとき外務大臣松岡洋右は、烈火のごとく怒った。
「なにっ! 賀川先生が巣鴨に入っているって?! 司法大臣、すぐ釈放しろ。それが出来ないなら、おれがかわりに巣鴨に入るぞ!」
司法大臣は風見章だった。
拘置所生活は三日で、自由の身となった。
巣鴨を出た賀川は、小豆島の豊島に向かった。
美しい瀬戸内海に囲まれたその地は、賀川にとっては “理想郷” を託した土地であった。立体農業の実験場をつくり、結核患者の保養所もつくられていた。
瀬戸内海の青い海が迫る窓辺に机を置いて、ペンをとった。途中で検挙されたため未完になっていた 『日本協同組合保険論』 の仕上げであった。完成したのは昭和十五年十月四日である。
『序』 で、それを書いた目的を語っている。
『多年、協同組合保険を研究し、新体制に即応するためにも、ぜひ国民に社会保険の必要性を理解してもらいたいと思って、ここに日本の協同組合保険を中心として、その西洋における淵源を尋ね、さらに東洋におけるその将来性を考慮して愚見を披瀝した ── 』
協同組合運動の名誉の完成は、囚人生活から解放されて、わずか二十日後であった。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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