〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2011/01/19 (水) 平和・戦争・平和 (一)

昭和十五年八月。大陸での戦火の拡大をよそに、賀川豊彦は長野県下高井郡平穏村で静に机に向かっていた。養生を兼ねて高原地帯の黒岩一夫から借りた家である。家族も一緒だった。
机の上の原稿は、次の様な書き出しから始まっている。
『第一章、協同組合保険の本質 ── 互助組合としての保険制度 ── 災厄に対する互助愛の経済は、早くより友愛組合として歴史の曙を賑わしている。生命保険がイギリスに於いて組織されたのは、友愛協会 (フレンド・ソサエティ) の形をとったことは、今さら説く必要は無い ──』
昭和十五年といえば、イギリスは日本の敵対国とされようとしていた、にもかかわらず賀川は、社会制度においてイギリスを先進国として紹介し、学ぼうとした。
この著書が先にも触れた、 『日本協同組合保険論』 であった。賀川の眼中には戦争はなかった。あるのは協同組合運動による 「災厄」 からの人類救済だった。
一方賀川は宗教家としての活動を停止していたわけではなかった。各地の教会を訪れ、修養会に出席し、伝道活動と講演活動も続けていた。

高原の風がここちよかった長野から、久しぶりにむし暑い東京へ戻ったのは八月の末であった。松沢教会の礼拝式に出席し、説教をした。
「世を救うためには、癩者の膿を吸う覚悟が必要です。真のキリスト者の生活とは、人の嫌がることをすることです。 ── いま日本は軍備を進めています。武力で道を切り開こうとしていますが、それは真のキリスト者の生活ではありません。武力という暴力を用いてはなりません。辱めを受けることがあっても、耐え忍ばねばなりません。それが戦争の破壊から世界を救う道です」
日本のガンジーにかえった賀川は、無抵抗主義を説き、平和の尊さを訴えた。
説教を終えて教会の外へ出た賀川の両側に、二人の男がぴたりと寄り添った。
「賀川さん、渋谷憲兵隊まで、ご同行願います」
「私が、何をしたというのだ?」
ここでそれを言う必要はありません」
同じようにして小川清澄牧師も、松沢教会から連れ去られた。
翌日の新聞には、賀川の検挙が報道された。
『賀川豊彦氏、小川清澄氏を松沢教会より検挙、陸軍刑法違反嫌疑で渋谷憲兵隊に留置取り調べている。賀川氏はアメリカ宗教団体が発行するカレンダーに反戦的な評論を掲載し、また、支那事変処理上有害と認められる極端な反戦的平和論を全国各地で講演したことが、当局の忌諱にふれたのである。小川牧師は賀川の協力者として、同様反戦的講演を行っていた ──」
問題のカレンダーは、1940年と41年にアメリカで発行されたもので、 『中国の同胞に』 という見出しで、賀川の文章が印刷されていた。
『日本の罪を許して下さい。日本のキリスト教徒は、軍部を抑圧する力は無いけれども、心ある者は日本お罪を嘆いています。私どもの祈りと働きによって、キリストの名による両国の親和の日が来るよう願います』
とくに賀川が中国同胞に対する日本の罪を強く感じ取ったのは、南京入場の日本軍による不法暴行行為であったようだ。戦後になって 「南京大虐殺事件」 として明らかにされている。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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