風雲急を告げる川崎・三菱両造船の状勢を踏まえて、総同盟神戸連合会は、大工場に対する 『職工の組合加入の自由』 を確認させる運動を起こすことを決定した。そして七月四日に労働団体が連合して
『団体交渉権確認要求労働者大会』 が開催された。 この大会で大工場との交渉委員に選ばれた賀川豊彦は、翌日、さっそく川崎造船と三菱造船へ乗り込んだ。 「労働組合を認めなさい。労使が対等で話し合うことが、産業発展の道です。それは会社のためにもなることですよ」 産業と社会と国家の発展のために、団体交渉権を認めよと賀川は熱心に説いたが、川崎造船はつっぱねた。 「わが社は職工たちのそういう要求は、断固おことわりします」 三菱造船の回答も同じようなものだった。 「わが社の争議は、わが社の内輪のことです。内輪で解決します」 両社ともそれをくり返すばかりか、不当にも組合リーダーたちのクビ切で応じてきた。それに対抗して労働組合がストライキの構えを見せると、川崎造船では、
「青襷隊」 と称する荒くれ男たちをけしかけ、職工たちがたむろしている所へ殴り込みをかけてきた。人夫供給を請け負っている組の “組員” に、会社が 「青襷隊」
をつくらせたのだ。 労働者側でも、ついに堪忍袋の緒が切れた。川崎造船の一万三千人、三菱造船の一万二千人の職工は、ほとんど同時に総ストライキに突入していく・・・・。 総同盟神戸連合会でも闘争支援体制を整えた。 「両争議の総指揮者に、賀川豊彦を任命しよう」 「やるからには命を張ってもやる。そのかわり、私の信念に従った闘争指揮をやらせてもらいたい!」 賀川は戦いについての全権の委任を取り付けた。 神戸の夏は暑い。油日照りの湊川新開地を、労働者の大デモがねり歩いたのは、大正十年七月十日だった。その数は三万五千人。労働者は怒涛となって
“力” を誇示した。 『死ぬまで戦え!』 『労働者最後の一戦』 『死線を越えて闘うぞ!』 プラカードの文字が市民の目を奪った。 賀川豊彦は先頭を歩いた。肩には
『参謀』 と書かれたたすきがかけられていた。太陽はギラギラ照りつけた。上半身裸の労働者も現れたが、賀川は純白の半袖シャツに黒いネクタイをきっちと締めていた。整った服装からは労働者の
“力” を、 「人間の人格」 として整然と披瀝しようとする決意がうかがえた。その決意を理解できないアナーキストのリーダーたちは、明らかに嫌悪感を示した。 「賀川のやつ、このデモを
『死線を越えて』 の宣伝に使ってやがるぞ!」 「労働者は、労働者らしくボロを着るべきだ!」 労働者だって資本家と変わらぬ人格を持っていると信じる賀川は、相手にしなかった。 |