しかし労働者の運動も虚しく、大正八年の第四十二通常議会でも、九年の第四十三回特別議会でも、 『普選法』 は否決された。期待が大きかっただけに、労働者の要求に耳をかさなかった、議会制度に対する幻滅も大きかった。その反動で、
「議会頼むに足らず、直接行動あるのみ」 のサンジカリズムが、労働者の心情をつかみ、労働組合運動の主流になっていく。 とくに関東の労働者への浸透は激しかった。サンジカリストの巨頭、大杉栄の影響であった。 「関東にサンジカリストの大杉あり」 「関西に議会主義の賀川豊彦あり」 二人は天下を二分した労働運動のシンボルになり、当然、いつかは激突する運命に立たされた。 ところで二人には共通点もあった。
「労働者も人格だ」 という点では一致していた。ただし賀川は “人間愛” の立場から、そう把えていたのに対し、大杉は自然主義的な “自由” の立場から、そう把えた。到達する道筋こそ違え、
「労働者も自由なる個人」 という点では二人は一致し、 「自由」 を尊ぶ立場から、二人ともマルクス主義には批判的だった。 「サンジカリズムと議会主義」、
「大杉栄と賀川豊彦」 の激突の舞台は、 『総同盟八周年大会』 だった。大正九年十月三日から三日間にわたって、大阪天王寺公会堂で開かれた。 初日は中之島公園から天王寺に向かってのデモ行進が行われた。楽隊は賀川がつくった労働歌を奏した。ところが先頭を行く関東の代議員は、 「目覚めよ、日本の労働者・・・・」
のかわりに、 |