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2011/01/13 (木) 貧民救済から労働運動へ (四)

翌年の大正七年四月、大阪天王寺公会堂で開かれた 「友愛会第五回大会講演会」 では、 『労働者は何故貧民なる乎」 と題して熱弁をふるった。
「わが国では、労働問題と貧民問題を、同一と考えている者も少なくない。ともあれ、この両者の区別はなかなか困難であるが、いったい、労働者はどうして貧民となっていくのか ──」
ここで賀川は五つの原因を挙げた。
「第一は飲酒である。だが、労働者の酒に対する心理は、はげしい筋肉労働であるからだ」
「第二は病気である。病気になれば職を失い、貧民に転落する。貧民になれば、労働者となっても欠勤が多くなる・・・・」
「第三は負傷である。機械を扱う労働者にとっては、負傷はとうてい免れることは出来ない」
「第四は生活の不安定である。いつ景気が変わって恐慌となるやも知れぬし、いつ解雇になるかわからない」
「第五は労働者は奴隷ではなくて自由なことである。自由なるが故に食えないというのは、その裏面に大いなる社会制度の欠陥があることを、忘れてはならない」
言葉を変えよう。
「病気や負傷の場合でも、生活を保障される制度を設け、失業と不安の無い社会をつくろう!」
賀川はこう説いているようだ。これは労働者の共済制度を説いていることになろう。ひいては協同組合社会を説いていたことになる。大正七年の時点で 『農協共済の父・賀川豊彦』 はすでに胎動を開始していたわけだ。その意味で記念すべき演説である。
この演説から三ヵ月後の夏、社会運動史に特筆すべき大ドラマの幕が切って落とされた。
大正七年七月二十三日は、うだるように暑い日だった。夜になっても寝苦しい暑さが続いた。
富山県滑川町の魚津港では、北海道通いの蒸気船にコメが積み込まれていた。裸の人夫がコメ俵を担いでハシケに向かっていると、闇の中から五十人ほどの漁師のかみさんが押しかけた。
「コメを積み出すのは、止めて!」
「おまえたちが、そうやってコメを運び出すから、コメが高くなっちまうんだ。このままじゃ餓死しちまう。おまえたちにコメは渡さないよ!」
四月に一升二十二銭だったコメが、四ヵ月後には四十六銭にも暴騰していた。
第一次世界大戦とその直後の好景気で、農村からの労力が都市へ流出した。人手不足の農村ではコメの生産量は減少した。そこへ猛烈なインフレの波が押し寄せた。さらにこの年、日本はシベリア出兵を敢行した。コメに対する投機熱は一挙に高まった。
「まだまだ、コメは値上がりするぞ!」
米屋はコメを買い占め、地主は売り惜しんだのが、暴騰の原因であった。
「このままでは、餓死する!」 と、漁師のかみさんたちは止むに止まれず、コメ俵をかつぐ人夫に抗議しに来たのだった。
「コメ騒動」 はこうして始まった。
警官が駆けつけ、かみさんたちに 「解散」 を命じたが、抗議の人波は膨れ上がった。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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