騒動の波はたちまち名古屋、大阪と大都市へ広がった。新川の労働者や貧民が米屋を襲撃し始めたのは、八月十二日だった。米屋は軒並み叩きつぶされ、群集はモメ俵を強奪した。そのうち酒屋も襲撃の対象になった。群集は強奪した酒で酔い、襲撃に凶暴さが加速され、神戸の町は無法地帯と化した。 賀川豊彦は県庁に飛び込み、清野知事に会見を申し込んだ。 「知事、即時、禁酒令を出しなさい。酒が、騒動を恐ろしいものにしますぞ!」 「しかし、法律で認められているものを、禁止するわけにはいきません」 知事は拒否した。 神戸市長も県庁に飛び込んできた。市長が知事に求めたのは、軍隊出動による騒動鎮圧だった。 米屋、酒屋を手当たり次第に打ち壊す群衆の波は、元町筋へと押し寄せる。 「わっしょい、わっしょい!」 「やれ、やれ!
── ぶっつぶせ!」 商店街のガラスが割られた。看板が引き倒された。コメに飢え、酒に酔った群集は、暴徒と化していた。 いよいよ軍隊が出動し、新川の路地を示威行進した。白服の警官はサーベルを振りかざして群衆の中に躍り込んだ。 「労働者が、これでいいのか!?
自らを解放する力は、暴力であってはならない。 ── 権力側も、権力による弾圧であってはならない」 悲しさで、賀川の胸は張り裂けそうになった。 「なんとしてでも、人間の触れ合いを基礎にした、新しい経済体系、新しい社会体系をつくらねばならない」 暴動は警官隊に蹴散らされ、多くの貧民や労働者が検挙されるのをながめた賀川は、社会悪から労働者をさせるための闘士としての、決意を固めていく・・・・。 一方、労働者や一般大衆も、この騒動をきっかけに、新しい自覚を持った人間へと成長したのも確かだった。 「コメ騒動」
は組織された大衆運動ではなかった。そもそもの発端は漁師のかみさんによる、自然発生的な大衆示威行動だった。だが、結果的にはその行動は寺内内閣を瓦解させ、原敬内閣を生んでいる。大衆は偉大な力を発揮したわけだ。おりしも前年にロシアでは革命が起き、労働者独裁によるレーニン政府が誕生した。 「おいらでも、やれば出来るんだ!」 「あたしたちだって、やれば出来るわ!」 大逆事件以来
“冬ごもり” を強いられていた労働者、農民は、一斉に蠢動を開始した。社会労働運動に春が訪れたのだ。労働者は労働組合の力を信じ、農民は農民組合結成へと動き出す。女性たちも
「婦人解放!」 を高々と掲げた。部落解放運動も、全国水平社結成へと大きな波のうねりとなった。 風俗・習慣も変革のののそをあげた。洋服が大衆のものとなり、パーマネントがあらわれる。劇場ではオペラが上演された。 「とき、いたれり!」 社会運動家としての賀川豊彦の活動に、拍車がかけられたのは当然である。 「コメ騒動」
もおさまったその年の師走に開かれた友愛会神戸連合会代議委員会は、二つの重要な決定をみている。 『 (一) 関西労働同盟会組織の件』 『 (二)
新神戸を改題し、同盟会の機関紙たらしむる件』 この時の大会議長には賀川が推されていた。 決定の内容は、神戸連合会がイニシャチブをとり、関西労働運動を一本にまとめあげ、神戸労働運動の機関紙であった
「新神戸」 を改題して、 「労働者新聞」 を発行しようというのだ。堂々と 「労働」 の文字を冠したところに大変大きな意義があった。 この時の決定が実行に移された翌大正八年四月には、賀川が新しく生まれた
「関西労働同盟会」 の理事長に推されている。かつ 「労働者新聞社」 の社長になり、発行・編集の責任者も兼務した。つまり関西労働運動会の第一人者となったが、その時の賀川は三十一歳であった。 西尾末広は当時の賀川をこんなふうに振り返る。 『わが国の労働運動や社会運動は、とくにその初期において、キリスト教の影響を受けることが多かったし、クリスチャン出身の優れた指導者が排出して、大きな功績を残している。その中で忘れることの出来ない人は、安部磯雄氏と賀川豊彦氏である。両先輩とも、今の言葉で言えば民主社会主義者であり、議会主義者であった。それも何よりも徹底した、信念の人であった』
(『賀川豊彦全集』 月報四 「政治家以上の人」) |