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2011/01/13 (木) 貧民救済から労働運動へ (三)

大阪に消費組合共益社が生まれた翌年には、神戸消費組合が生まれた。日本の消費者運動の規範となる灘神戸生協の前身であった。
このように消費組合運動に一挙に突入していった賀川だが、小柄な体の中では、労働組合に対する関心も同時に進行していた。
賀川が労働組合運動に身を投じるきっかけは、アメリカから帰国して四ヵ月後の 「友愛神戸連合会」 からの公演依頼であった。日本の労働組合が賀川の帰国を待ちかねていたようなタイミングで、公演依頼は舞い込むが、運営論的な言い方をするならば、賀川がニューヨークで労働者デモに遭遇したことと、日本の労働組合運動の進展とが、太平洋を越えて目に見えない糸で結ばれていたと言えようか。
「友愛会」 は後の 「日本労働総同盟」 の前身である。大正元年、統一基督教 (ユニテリアン) 弘道会惟一館の幹事であった鈴木文治を指導者として生まれていた。労働組合という呼称がつけられなかったのは、明治の大逆事件以来社会革新運動に対する弾圧は峻烈をきわめ、 「社会」 とか 「労働」 といった文字すら禁句とされるような、社旗労働運動にとってはきびしい “冬の時代” だったからである。そのため労働者組織であるが 「友愛社」 と名付けられていた。
賀川豊彦が渡米する頃から、 「友愛会」 は次第に力を蓄える。第一次世界大戦による物価高が労働者の生活を圧迫した反面、労働需要の激増は労働者の立場を強くし、しだいに労働組合らしい動きをとるようになっていく。
友愛会運動が神戸に入ったのは、大正三年秋だった。賀川が渡米した直後で、川崎造船の労働者を中心に神戸分会が生まれた。それをきっかけに各工場に分会や支部が広がり、それらが連帯して 「友愛会神戸連合会」 へと結集されていった。
友愛会からの使いは賀川のところへ来て、こう伝えた。
「九月五日の夜、キリスト青年会館で八百人が集まり、講演会を開きます。そこで賀川先生にも講師をお願いします」
「どうして、わたしが?」
「この講演会は、アメリカの鉄輸出禁止に対する抗議集会です。そこでアメリカから帰ったばかりの先生に、アメリカの生の顔について、ご講演をお願いしたいのです」
喜んで賀川は承諾した。賀川の演題は 「鉄と筋肉」 であり、他に友愛会会長の鈴木文治、大阪連合会主務松岡駒吉、神戸連合会主務高山義三が遠大に登った。
アメリカの国情を語り、ニューユークでの労働者デモの光景をつぶさに語った賀川は、叫んだ。
「労働組合はいよいよ力を蓄え、自らの力で自らを解放すべし!」
この公演をきっかけに賀川豊彦は 「友愛会神戸連合会」 の評議員に推され、セツルメント活動、消費組合運動と並行して、労働組合運動の中枢での活動へと突入していく。

『一粒の麥は死すとも ── 賀川豊彦』 著:薄井 清 発行所:社団法人 家の光教会 ヨ リ
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