二年九ヶ月ぶりになつかしい新川の貧民窟へ帰って来た。 得体の知れない臭いのむれる風景は、少しも変わらなかった。共同便所の扉はあいかわらずこわれたままだし、道端のドブでは汚水がブクブク泡をたてていたし、物干竿では所かまわず汚いおむつが翻っていた。少しも変わらぬ風景とは裏腹に、住民の消息に関しては、まるで浦島太郎のような感慨にひたされた。 あどけない顔で日曜学校へ通っていた少女が、遊郭に売られて客を取らされていたり、いたずら坊主がスリの子分になっていたりした。 「私が最も愛していた小鳩たちを、私のもとに帰して下さい・・・・。アーメン」 賀川豊彦はイエスの前に跪いた。 留守中に
「イエス団」 は世帯が大きくなり、吾妻通五丁目の二階家に引っ越していた。 七月にはいると横浜共立神学校を卒業したはる夫人も帰り、主人公が揃った 「イエス団」
の活動は、一段と活気を呈した。 神の教えを学んだはる夫人の初仕事は、路地裏から路地裏をまわり、トラホームの患者をみつけて点眼する巡回看護だった。小さな真鍮のバケツに点眼薬を入れてはるがまわっていくと、目やにでただれたり、白目も黒目も消えて赤黒く濁った目玉の子供や老人が近寄って来た。 「先生、あたいの目にもクスリ入れて・・・・」 「目玉がスーッとして、気持ちいいよ」 患者の喜ぶ声を聞くと、はる夫人は疲れを忘れた。じつははる夫人の目も痛んでいた。感染したのかも知れないという不安もあったが、点眼のあとで汚れた顔でニッコリ笑い返す患者を見ると、不安も吹っ飛んだ。 そのうち眼球がうずいて夜も眠れなくなった。風景はボーッとかすみだした。 「どれ、みせてごらん」 瞼を押し開いて賀川はのぞき込んだ。 「これはひどい・・・・」 白眼にも黒目にも血管がふくれて浮き上がり、全体が赤黒く濁り、ブドウの房のように血管の瘤が盛り上がっている。 「すぐ大阪医科大学へいって診てもらいなさい」 「でも、大勢の患者があたしを待ってます」 自分の身よりもはる夫人は冠者の身を案じたが、大阪行きの電車にむりやり押し込まれた。半失明に近くて足元もおぼつかない妻だったが、多忙をきわめる夫はついて行けなかった。 その夜、はる夫人は帰宅しなかった。 『すぐ入院致しました、四、五日経過を見て、宮下博士が手術をしてくださるそうです。お安心下さい』
という葉書を受け取った賀川は、ただちに病院へ駆けつけた。 三等病室で、大勢の患者と一緒にはる夫人は寝ていた。 「ここに入院している人たちは、あたしたちより貧乏な人たちばかりです。大学の研究材料になるため、入院させてもらったそうよ」 病める目は痛ましそうに病室を見まわした。 「あなた、こういう人たちの為にも、早く病院をつくりましょうね」 「わたしもそれを考えていたところだ。貧しい人たちが、安心して治療できる病院をつくるつもりだ」 手術は眼科部長宮下博士の執刀で行われた。ブドウ状の血管腫を切り取った左目は失明したが、眼球が残せたのが不幸中の幸いだった。 「まだ一つ残ってますもの。大丈夫よ」 なぐさめる人たちに向かって、はる夫人は明るく微笑んだ。 |