アメリカ行きの決意が伝わると、 「これを旅費の一部に使ってください。成功を祈ります」 ローガン博士やマヤス博士は、それぞれ二百円を貸してくれた。 「豊彦よ、こりゃあたしのへそくりだよ。おまえの役に立てられた、うれしいよ」 義母のみちも百円出してくれた。 妾の子であった豊彦には、辛く当たったこともあるみちだった。だが、最近では徳島から神戸に出て来て賀川のもとに身を寄せていた。 「兄さん、これを使ってくれよ」 末弟の益慶も百円出した。益慶は生後間もなく母に死なれて乳母に引き取られ、その後大阪へ丁稚奉公に出されたが、肥料商として成功していた。 それでも渡米費用は足りなかった。不足分は翻訳の仕事で稼ぎだした。賀川が口述する訳文を、眠い目をこすりながらはるが筆記した。 大正三年八月二日、賀川豊彦は丹波丸で神戸港を出港する。二十六歳だった。 神戸の町には、うら悲しい
「カチューシャの唄」 のメロディーが流れていた。そのとき欧州では、第一次世界大戦の火蓋がきられ、日本が対独宣戦布告したのは八月二十三日である。 サンフランシスコへ入港した賀川は、いよいよアメリカの土を踏めるぞ、と勇み立った。とたんに検疫で
「待った」 がかけられた。 「あなたはトラホームの疑いがあります。真性のトラホームだと、このまま本国へ送還します」 無情な宣告が下された。 たしかに賀川の目にはかすかな異常があった。そういえば、はるの目も少しおかしかったと、異国の地で妻の目を思い出した。 「これは疲れから来た異常です。すぐになおります」 賀川は検疫官に抗弁した。本国に送還されるくらいなら、このまま死にたい心境だった。さいわいトラホームの疑いは解け、アメリカの土への上陸は許された。 サンフランシスコから汽車に乗り、シエラ・ネヴァダ山脈を越え、砂漠を横断し、さらにロッキー山脈を越え、ミシシッピーの大平原を突っ走り、ニューヨークとフィラデルフィアの間にあるプリンストンに到着したのは、日本を出てから四十日後の九月十一日だった。 プリンストン大学とプリンストン神学校の二つの学校へ入学するのが、渡米の目的だ。 無条件で入学できると考えて渡米したのだが、プリンストン大学では、入学試験が待っていた。日本の正規の大学を卒業していなかったからである。 『進化論に関する文献をあげその梗概を述べよ』 世界各国から集まった受験生はピューッと口笛を鳴らし、不満を訴えた。難問なのだ。 「進化論といっても、ダーウィンだけ論じても落第だぞ。アメリカの大学は厳しいからな」 赤ヒゲの試験管は威嚇した。 さっそく賀川はペンをとった。難問ではなかった。生物学には興味を持っていたし、
『進化論』 は中学時代から読んでいた。 『ダーウィン、ラマルク、エドモンド、ウォーレス、ヨハンセン』 賀川の答案用紙には、じつに二十四冊の著書があげられ、梗概が的確に書き込まれた。 「賀川、きみは偉大なる生物学者ではないか!」 青い目の試験管は、おおげさな身振りで驚嘆した。 試験管の言葉は誇張でもお世辞でもない。 宗教家であり、労働運動家であり、農民運動家であり、医療運動から共済運動へ巨歩を進めた賀川豊彦だが、人間と人間社会を見つめる視点には、生物学、とくに
『進化論』 の裏付けがあった。幼児の頃から昆虫の小さな生命の動きにも興味と愛情を注いだ目は、人間を見るとき、人間愛へと広がり、労働者・農民に限りない愛をそそぐ巨人の生涯をかたちづくっていった。それを示すのが次の文章である。 『ファーブルの生存競争の研究、それなら自然界の争闘はどうか。ファーブルはダアウインが世界を血で塗ったものと同じ材料で、全く違った結論に達した。彼の世界は争闘の無い世界ではなかった。然し彼の見た生物間の争闘は人間の戦争のようなものではなかった。争闘には調整があり、区域があり、残酷最小限の規定のある争闘であった』
(『世親運動と社旗運動』) “社会悪” に対して飽くなき挑戦を続けた賀川だが、賀川の闘争の特徴は、tyねに節度を保っていた点である。闘争のための闘争は否定していた。そうしたところにも生物学者の目が感じられる。 |