〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/12/20 (月) 『新・平家物語 (十六)』 P−416 〜 P−418

── この辺で、と
麻鳥夫婦は、けさ、旅籠はたご でこしらえてもらって来た弁当を、ひざの上で解き合って、食べつつ、花をながめつつ、物も言わずにいたのであった。
「・・・・」
言わぬは言うにまさる、さほどな理解が、自然何十年もの間には、二人の仲に出来上がっていた。
今、お互いは、何を胸で想っているのか、たぶん、それも交響しあっているにちがいない。だから、飽くこともないのであろう。
ひとはし 、口へ運んでは、また手の箸を、しばらく忘れている。そして。よもぎ は蓬、麻鳥は麻鳥で、
「ああ、ずいぶん、いろんなこともあったが、長い長い年月を、別れもしないで」
と、夫婦というものの小さい長い歴史を、どっちも、無言の胸にひもと いていた。
── 思えば恐ろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節を いて、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。
自分たちのあわ ッブみたいな世帯は、時もあろうに、あの保元、平治という大乱前夜に、門出していた。 ── よくもまあ、踏み殺されもせずに、ここまで来たものと思う。
そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは、。
絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人々も、みな有明ありあ けの小糠こぬか ぼし のように、消え果てしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって、無事でいるなどは、何か、不思議でならない気がする。
「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見てきたどんな栄花の中のお人よりも。・・・・また、どんなに気高く生まれついた 容貌きりょう よしの女子たちより」
蓬は、やわらかな若草のすわり心地へ、こう、心で答えずにはいられない。
親しく、自分がお仕えした常盤ときわ さまは、あのような御運の末だし・・・・。
そのほか、女院、姫宮、お局から、君立ち川の白拍子まで、およそ、美しいが故に、かえってのろ われ、あたら野山の草庵そうあん にのがれて、黒髪をおろした花々なども、どれほどか、数も知れない。
「・・・・それなのに、わたしという愚痴な妻は」
彼女は、思い比べて、そっと悔やんだ。
もうびん も真白な良人の横顔へ、ひそかな びも、胸でしていた。
けれど、彼女の良人にすれば 「それは、あべこべだよ」 と言いたいであろう。 ── 麻鳥の方こそ、じつは、この吉野へ来たら、老いたる妻へ、いちどは、男の本音として、
「よく、わしみたいな男に」
と、礼やら詫びを、言おうと考えていたのである。吉野の花を見せるよりは、ほんとの気持ちはそれだった。きょうまで何一つ、これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾ぞうきん のように使い古してしまった妻へ、そして、わがままな男の意志へ、なんのかのとはいっても、よくついて来てくれた妻へ、彼はあらためて、
「・・・・・・」
何か、言ってやりたい。
けれど、そうした男の胸のものを、こっくり、言い表せる言葉などは、見つからなかった。真情とは、そんな簡単に、出して見せられるものではなかった。 ── だから、さっきから、黙っていた。が、蓬には、良人のそうした気持ちは充分なほど分っていた。ふたりのひざをめぐって、陽炎かげろう がゆらめいている。陽炎は、ふたりの言葉だった。

『新・平家物語(十六)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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