彼の両親は今、神泉苑
の近くの路地に、ただの町医者として平凡に暮らしている。 依然、官途はきらって、よろこぶ生を、庶民と共にしていたのはいうまでもない。世帯は、円夫婦とも一緒だった。そして、孫も二人まで生まれていた。 「──
おや、お両親 とも、今日は、留守なのかい」 麻丸が、いぶかい顔に、家じゅうを見まわすのを、円
は、南縁で笑っていた。二人の幼子
に、取りつかれながらも、さも幸福そうな、留守番の姿だった。 「そうよ、お兄さん。めずらしいでしょう。・・・・あのおじいちゃん、お婆
ちゃんが、一緒に花見へ出かけるなんて」 「へえ?・・・・お花見にね。・・・・これは驚いた。あの、おやじ様とおふくろ様が、連れ立って、花見に出かけるなんざあ、たしかに一世一代のことだろうな。いったい、どこへ行ったのか」 「おととい、吉野山へ行くと、仰っしゃって」 「えっ、吉野山へ。それはまた、ひどく遠くへ出かけたもんだな。花は都にも、あちこち咲いているのに」 「おじいちゃん、おばあちゃん、仲よく、御相談の上でしたよ。きっと、花見がてら、義経さまや静さまの跡でも弔
うお心ではないかしら。・・・・蔵王
堂 にお籠
りしてなんて言ってましたから」 「じゃあ、いつ帰るやら分らないね。これやいけない。お迎えに行かなくっちゃ」 その日、麻丸は、いちど鵜八の仕事場へ戻り、すぐ吉野山へ旅立った。
── 吉野の花は、おおむね、立春
から六十五日目ごろが、盛りだという。時そも、季節といってよい。 「・・・・さよう。たしかに、そのような品のよいご老体の夫婦が、仲よく、きのうお登りでございましたよ」 麻丸は、ふもとの吉野川の渡舟
で、聞いた。 「それそれ、てっきり、その爺
さまと婆 さまだ」 もう探し当てたように思う。 山上は、大賑
わいであった。花の人出に加えて、何かのお賽日
でもあるらしい。 ひと晩は、門前町に泊まって、 「はて、こんな人混みにいるわけもなし?」 と、次の日の思案へ歩いた。 ── 吉野も、ずっと奥の、もう花見る人の群れもまばらな辺りまで、探し歩いて行ったのである。 すると、広やかな明るい谷あいが、行く手に展けた。かなたの峰々すべて、桜色の雪でない山肌はない。はるかな空まで花の雲だった。風流気
などない麻丸も 「ああ、これが一目千本か・:・・・」 と、思わず、眼を細めたほどだった。 ふと、気がつくと、近くに、人がいる。 谷を前にした崖ぎわの草のよい所に、二つのまろい背中が見える。
── 白髪の雛 でも並べたようだ。満山の花に面を向けたまま、行儀よく、そして、いつまでも、ただ黙然と、すわっている。 麻丸は、見つけるとすぐ、 「おお・・・・」 走り寄ろうとしたが、ためらわれた。 もしこれが、見ず知らずの、よその老夫婦であるにしても、彼は、その二人だけの恍惚
を、そっとしておこうとしたにちがいない。 ── 驚かしてはいけない。そう考えて、彼も、そこらへ腰をおろした。そして、気がつくまではと、彼は、花よりも、老いたる両親のめずらしい背に見とれていた。 |