〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/12/20 (月) 『新・平家物語 (十六)』 P−413 〜 P−416

彼の両親は今、神泉苑しんせんえん の近くの路地に、ただの町医者として平凡に暮らしている。
依然、官途はきらって、よろこぶ生を、庶民と共にしていたのはいうまでもない。世帯は、円夫婦とも一緒だった。そして、孫も二人まで生まれていた。
「── おや、お両親ふたり とも、今日は、留守なのかい」
麻丸が、いぶかい顔に、家じゅうを見まわすのを、まどか は、南縁で笑っていた。二人の幼子おさなご に、取りつかれながらも、さも幸福そうな、留守番の姿だった。
「そうよ、お兄さん。めずらしいでしょう。・・・・あのおじいちゃん、おばあ ちゃんが、一緒に花見へ出かけるなんて」
「へえ?・・・・お花見にね。・・・・これは驚いた。あの、おやじ様とおふくろ様が、連れ立って、花見に出かけるなんざあ、たしかに一世一代のことだろうな。いったい、どこへ行ったのか」
「おととい、吉野山へ行くと、仰っしゃって」
「えっ、吉野山へ。それはまた、ひどく遠くへ出かけたもんだな。花は都にも、あちこち咲いているのに」
「おじいちゃん、おばあちゃん、仲よく、御相談の上でしたよ。きっと、花見がてら、義経さまや静さまの跡でもとむら うお心ではないかしら。・・・・蔵王ざおう どう におこも りしてなんて言ってましたから」
「じゃあ、いつ帰るやら分らないね。これやいけない。お迎えに行かなくっちゃ」
その日、麻丸は、いちど鵜八の仕事場へ戻り、すぐ吉野山へ旅立った。 ── 吉野の花は、おおむね、立春りっしゅん から六十五日目ごろが、盛りだという。時そも、季節といってよい。
「・・・・さよう。たしかに、そのような品のよいご老体の夫婦が、仲よく、きのうお登りでございましたよ」
麻丸は、ふもとの吉野川の渡舟わたし で、聞いた。
「それそれ、てっきり、そのじじ さまとばば さまだ」
もう探し当てたように思う。
山上は、大賑おおにぎ わいであった。花の人出に加えて、何かのお賽日さいじつ でもあるらしい。
ひと晩は、門前町に泊まって、
「はて、こんな人混みにいるわけもなし?」
と、次の日の思案へ歩いた。
── 吉野も、ずっと奥の、もう花見る人の群れもまばらな辺りまで、探し歩いて行ったのである。
すると、広やかな明るい谷あいが、行く手に展けた。かなたの峰々すべて、桜色の雪でない山肌はない。はるかな空まで花の雲だった。風流 などない麻丸も 「ああ、これが一目千本か・:・・・」 と、思わず、眼を細めたほどだった。
ふと、気がつくと、近くに、人がいる。
谷を前にした崖ぎわの草のよい所に、二つのまろい背中が見える。 ── 白髪のひな でも並べたようだ。満山の花に面を向けたまま、行儀よく、そして、いつまでも、ただ黙然と、すわっている。
麻丸は、見つけるとすぐ、
「おお・・・・」
走り寄ろうとしたが、ためらわれた。
もしこれが、見ず知らずの、よその老夫婦であるにしても、彼は、その二人だけの恍惚こうこつ を、そっとしておこうとしたにちがいない。 ── 驚かしてはいけない。そう考えて、彼も、そこらへ腰をおろした。そして、気がつくまではと、彼は、花よりも、老いたる両親のめずらしい背に見とれていた。

『新・平家物語(十六)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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