「それへ来たのは敵の源氏か」 突然、舳
の一隅 で、こう烈しい声がする。 白い春の星影に、相互の輪郭が、おぼろげながら見てとれた途端
であった。 「おおさ」 声の下に、弁慶はやや前に躍り出て、 「これは、このたびの追討の大将軍源
判官 義経
の殿にておわす。われは郎党の武蔵坊弁慶とは申すなれ。 ── すでに平家も今日の戦で亡
びつくし、一門泡沫
と化 し果てたるに、なお何者なれば、わずかな数を恃
んで醜 しゅうは潜みおるか。死に迷うているものなれば、いで、弁慶が死なしてくりょうず」 「・・・・・・・」 「それとも、力は尽き、海へも死ねず、ただ、命一つを助からんとする者か。降伏せんとの願いなれば、太刀長柄などの打ち物を積んでそれへ差し出し、同勢首をそろえて躄
り出よ。そしてまず判官殿を拝したてまつれ」 と、誘った。 すると、静かな笑いを浮かべた顔がある。その一群れの一番前にいた大将らしき風貌
の平家人 であった。もし衣冠せしめたら、いかに優雅で大どかな殿上人であろうかを思わせずにおかなかった。 「名ばかりは聞いておる。其許
が九朗の殿の股肱 、武蔵坊弁慶か」 声までが、まろみのある穏やかな響きを快く人に与える。 弁慶も、自然、あららかな語気も出ず、 「さなり。
── して、そう申さるる和殿は」 「かかる姿となっては、いうも恥ずかしけれど、儂
は浄海 入道清盛どのの四男、権中納言知盛ぞ」 「あっ、ではやはり」 「そこに、源
判官 どのが見え給えるこそ倖せなれ。判官どにへ物申さん」 義経が、つと進んで、相手の眸
へ、その全姿を与えたとき、知盛もわれから少し歩み出ていた。星明りの下、およそ十歩ほどおいて二人は相見た。どっちの顔もその夜の夜空のようにぬぐわれていた。なんらの敵愾心
や怨 みを残している風ではなかった。 「権中納言どのとは其許にてあるか。さても、今日はよく戦われしも、お志
も空しゅう、さだめし残念なことでおわそう。 ── 名をいうも恥と仰せあったが、さすが入道どののおん名はけがし給わぬ軍
をなされしよ。義経こそ、ただ潮幸
に乗って勝ったるまでのこと」 「その仰せ、勝者のお口より伺うこととて、一しお欣
しく存じ侍る。おなじ敗るる軍
、亡 ぶ平家の運命
ならば、其許 のごとき大将の手にかかりしは、せめて一門の者にとっても菩提
の扶 けとなり申さん。この知盛までも、今は思い残す何事もない」 「いや、すがすがと仰せあれど、お心の底は察し入る。義経にさえ、恨み多き戦の始末であったものを。・・・・かなかり、罪なき人びとまでを、死なせんとは、本意でもなかったに」 「大きな時の巡りには、いつも伴う犠牲
と申そうか。人の子なれば悲しまれもする。が、春の末を去り行く花々、秋の暮れを吹かるる木の葉。平家の末も、あれと似たもの。今を境に、世は変わった。まったく、べつな人びとへと移って行った」 「とは申せ、みかどやら、尼の公
やら、科 ともいえぬお人までを、無残な犠牲
となし奉り、義経すらも胸傷
まずにいられませぬ。まして、其許には」 「そう仰せられては、つい涙に誘われる。・・・・が母の二位殿には、いかばかり、死なばや、死のみが恋しと、早くより仰せだったことかしれぬ。さだめし今ごろは、千尋
の波底に、安けきお顔を洗われておいでかと、この身までも、往生を得た心地がする。 ── ただ、なんとも、痛ましゅう存じ上げるは、幼い主上にましませど」 「ああ可惜
なことを。其許までが、このお船に来ておられながら、なんでむざたることを見過ごされしぞ。解
せぬお胸かなと、義経すら腹立たしい」 |