〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/25 (木) 『新・平家物語 (十四)』 P−229 〜 P−233

「・・・・さまで思し召し給わるか」
遠くの波光か、知盛の胸に起こった波か、彼の顔に、揺れが見えた。そのあと、白さを えた頬や、くちびる のあたりを、涙とわかる光が、さんぜんと、たばしっていた。
が、あわてて面をそむけ、そして、初めて声を出して笑った。
「惜しみ給わるお心はいとうれしいが、たとえこのにおん命を、やさ しき敵の大将にあずけ参らあせたとて、おそらくは、あの御幼帝の先々、いかがあろうか。 ── 都には、べつに後白河の上皇きみ の立てたる天子のあること、かつは、九族までも、院の憎しみ給う清盛公のおん孫にもあたらせらるるを思えば、よも、都の中に安けくおん母と一つにおくを許し給うはずはない」
「・・・・・・・」
「さらにはまた、判官どのとて、身に覚えもありつろう。院の殿裡でんり 、廷臣の弄策ろうさく 、武権と政事まつりごと の常なる み合い。およそ今の都は、ここ壇ノ浦にもまさる修羅しゅら の明け暮れと申せよう。・・・・そのような中に、宿命のみかどが、なんで人の子らしい、おすこやかな御成人を遂げられようか。物心を知り給うお年ごろとなればなるほどお身は危うい」
「・・・・では、わだつみの底へ抱き参らせたは、わざとなる、慈悲との御思慮であったのか」
「いや、慈悲などとなんで思えよう。申したは、あきらめの言葉。まことは、この知盛が、おのれの船を焼き捨ててこれへ せ参ったとき、すでに、尼公あまぎみ も見えず、みかどもおわさず、事終わっていたものを」
すると、それまで、ただ、知盛の言葉に耳を澄ましてたたず んでいた時忠が、はっと、何か突然、ある想像を打つけられたように、声を発した。
「あ、いや。・・・・そつ が申すには、そのおり、すでに知盛どのは、このお船にあったと聞くが」
知盛もまた、はっと、 を時忠親子へ向けた。が、なぜか沈黙を続けた。感情の乱れや、前後の思慮を、ととのえていたに違いない。
「叔父君よな・・・・」 やがて、依然静に 「おことばなれど、そつ ノおつぼね には、何事も御存じはない。知盛を見たといわるるは、まぼろしか、知盛に似た人か、いずれかであったのでしょう。御気丈なる叔母君にてはあれど、やはり女性にょしょう 、まして恐ろしき一瞬の飛沫ひまつ や悲泣のつむしの中でのこと。── この後とも、そつ の叔母君が見たといわるる儀は、なべて、幻影にほかならじと、お聞き流しにあって、ゆめ、御他言などはつつしまれたい」
「・・・・そうか」
時忠はうめくように言った。ただ一言、そう言ったのみで、知盛の顔から、何か、読み取ろうとするものの如く、穴のあくほど凝視していた。 ── が、知盛は同時に、つつと、後ろの人影のうちへ身を後退あとず らせていた。そして早口に 「── 伊賀っ、伊賀っ」 とまわりへ呼び、
「はやここを去れ平内左衛門。あとは知盛が引き受ける。はや行け」
と、叱咤しった して追いたてた。
みよし の下に、一艘の空船がつながれていた。伊賀平内左衛門はじめ、十数名の影は、知盛の叱咤と同時に、わらわらとしれへ飛び降り、そしてたちまち、やみの内へ ぎ去った。
「・・・・・・・」
その間、知盛は、両手の薙刀を大構えに持って、何人なんびと たりとも、さまた げる者とは戦わんという意志を示していた。
義経もまた、弁慶以下、たれの手出しもゆるさない。かれらの足掻あが きを、後ろに支え、あえて見過ごしていたのである。
「やよ叔父君」
やがて、いった。そういう知盛の面に、日ごろのもののような微笑がのぼっているのを、時忠は、はっとして見た。
「平家のあとのこと。くれぐれ、頼みまいらせる。おゆるしあれ、知盛はわがまま者。ただ今より、母の二位どのを追うて、安けき所へ急ぎますゆえ」
「── あ、待たれよ」
時忠は、我を忘れて、まろぶが如く、彼のそばへ馳けた。
が、じつに、とっさにその人影はかき消えていた。今まで物を言っていた権中納言知盛は、知盛の亡霊か、幻でもあったように、それは一颯いつさつ の風に似、人びとの眼を疑わせた。
── けれど、たちどころに、ざぶんと高い水音がした。その飛沫は、すぐ波間をのぞいた人びとの肩や顔にも冷たくかかった。一面蛍光けいこう をもった泡つぶはいつまでも消えなかった。その拡がりや飛沫の高さから見て、知盛は、身ばかりでなく、とっさに、いかり を抱いて沈んだもののようであった。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ