〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/24 (水) 『新・平家物語 (十四)』 P−209 〜 P−211

知らないはずはない。
舷側げんそく の下の波間には、知盛の家臣光季みつすえ やら、ほかの舟も、よそながら、ここの船御所を守っていたはずである。
だのに、いつの間にか、船上の賢所かしこどころの前には、外部からの人影が忍び入って、御扉みとびら の前にたたず んでいた。
侍大将の越中次郎兵衛が気づいて、たっと、怪しみながら、
「たれぞっ。何者か」
近づいて行くと、二つの人影が、きっとこっちを振り向いて、次郎兵衛盛嗣もりつぐ を、恐ろしい眼で睨めつけた。
「あっ?」
驚きにしびれ、あとの声も出なかった。
平大納言時忠と、その子時実だったのだ。
尼公の弟、おん国母の叔父君。彼が竦んだのもむりはない。
だだだと、かかと ずさりに戻って来、平内左衛門のいる所へ来て、
「伊賀。すぐ来い。怪しきお人が賢所へ近づいておる。ただの異変ではないぞ」
と、その腕を引っ張った。
平内左衛門は、彼とともに、賢所のある艫の方へ馳け出したが、とつぜん、くまれていた腕を逆用して、ずでんとばかり、盛嗣もりつぐ を投げつけた。
不意を食った盛嗣は、
「な、何するかっ。伊賀っ」
跳ね返そうとし、また、わめ こうとしたが、平内左衛門の手が、その口をふさ いでいた。
そのまに、平内左衛門の郎党が馳けて来る。盛嗣は、死力を振るって、たっと立った。だが、よろめき立ったとたんに、平内左衛門らの諸手もろて 押しに追われて、仰向けざまに海中へ突き落とされてしまった。
「・・・・あれやたれぞ。今の水音は」
二位の局が、そばの者へ、 いていた。
さりげない顔して、すぐそこへ取って返していた平内左衛門が、後ろの方から答えた。
「越中次郎兵衛が、はや、死出のおん先がけを仕ったものと思われまする」
尼は、無言であった。けれど、ざわ めきが辺りに立った。次郎兵衛盛嗣は、賢所の守りについていた大将である。神器に異変があったのではないか。次郎兵衛が持って海へ沈んだのではないか。そうした危惧きぐ や疑いの口走りだった。
「いえ、案じぬがよい」
尼は、言った。
「── 神鏡かみかがみ 唐櫃からびつ は、余りに大きゅうて身に持たねど、神璽しんじ と宝剣の二品は、尼が手に、しっかと、携えておりまする。なお余す、片方の手に、主上を抱きまいらせれば、敵が望む何物も、この世に残してはいますまい。・・・・主上はいかが遊ばしてぞ。女院はまだか」
尼は、そぞろに、死を急いだ。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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