知らないはずはない。 舷側
の下の波間には、知盛の家臣紀
ノ光季 やら、ほかの舟も、よそながら、ここの船御所を守っていたはずである。 だのに、いつの間にか、船上の賢所の前には、外部からの人影が忍び入って、御扉
の前に佇 んでいた。 侍大将の越中次郎兵衛が気づいて、たっと、怪しみながら、 「たれぞっ。何者か」 近づいて行くと、二つの人影が、きっとこっちを振り向いて、次郎兵衛盛嗣
を、恐ろしい眼で睨めつけた。 「あっ?」 驚きにしびれ、あとの声も出なかった。 平大納言時忠と、その子時実だったのだ。 尼公の弟、おん国母の叔父君。彼が竦んだのもむりはない。 だだだと、踵
ずさりに戻って来、平内左衛門のいる所へ来て、 「伊賀。すぐ来い。怪しきお人が賢所へ近づいておる。ただの異変ではないぞ」 と、その腕を引っ張った。 平内左衛門は、彼とともに、賢所のある艫の方へ馳け出したが、とつぜん、くまれていた腕を逆用して、ずでんとばかり、盛嗣
を投げつけた。 不意を食った盛嗣は、 「な、何するかっ。伊賀っ」 跳ね返そうとし、また、喚
こうとしたが、平内左衛門の手が、その口を塞
いでいた。 そのまに、平内左衛門の郎党が馳けて来る。盛嗣は、死力を振るって、たっと立った。だが、よろめき立ったとたんに、平内左衛門らの諸手
押しに追われて、仰向けざまに海中へ突き落とされてしまった。 「・・・・あれやたれぞ。今の水音は」 二位の局が、そばの者へ、訊
いていた。 さりげない顔して、すぐそこへ取って返していた平内左衛門が、後ろの方から答えた。 「越中次郎兵衛が、はや、死出のおん先がけを仕ったものと思われまする」 尼は、無言であった。けれど、騒
めきが辺りに立った。次郎兵衛盛嗣は、賢所の守りについていた大将である。神器に異変があったのではないか。次郎兵衛が持って海へ沈んだのではないか。そうした危惧
や疑いの口走りだった。 「いえ、案じぬがよい」 尼は、言った。 「── 神鏡
の御 唐櫃
は、余りに大きゅうて身に持たねど、神璽
と宝剣の二品は、尼が手に、しっかと、携えておりまする。なお余す、片方の手に、主上を抱きまいらせれば、敵が望む何物も、この世に残してはいますまい。・・・・主上はいかが遊ばしてぞ。女院はまだか」 尼は、そぞろに、死を急いだ。
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