〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/24 (水) 『新・平家物語 (十四)』 P−211 〜 P−214

この時どこかで、すさ まじい武者声がし、続いて、ずずんと、烈しく船が れた。船じゅうの絶叫は 「敵ぞ」 「東国武者が せたるぞ」 という以外の声ではなかった。
船底の暗がりにも、女性の叫びが起こっていた。女童めのわらべまじ え、そこの穴口から外へ、いちどに、黒髪と の女房たちの群れがあふれ出て来た。まろび合い、すがりあい、泣き伏す人の上に、おり重なって泣いた。
悲泣といっても、号泣といっても、いい足りるものではない。彼女らは、こうなるとは思わなかった。なお何か一縷のものに、望みをかけていたらしい。 ── みかど、女院、そつつぼね ── などを力として。
だが、一瞬の様相は、破滅以外のものではなかった。 「 う、みかどを、尼公のお手に」 と、むごい、冷たい叱咤しった が、事もあろうに、衛士の大将から叫ばれたりしている。
動顛どうてん せずにいられなかった。悲しさの限りをむせ び上げずにはいられなかった。わが身の死は、ともかくである、彼女らとて、それまでには未練は持たない。むしろ、女性特有な心定めは、武者よりは迷いのないものがあったかも知れないのだ。彼女たちの慟哭するわけは、おいとけなき白珠しらたま のような無邪気なみかども、世の薄命を身一つに集めておいでのような建礼門院も、ついに、ご最期さいご のほかはないのかということだった。同時に、自分たちの身につながる幼い者、死なせたくない者への、絶望もともなった。
「── 西の空、かなたの美しさを、御覧ぜられり。四方の浄土とは、かしこ。極楽の浄土とも申しまする。そこの久遠くおん の命のたのしみは、人の世の都どころではありませぬ。なんぼう、苦患くげん悪業あくごう も知らぬめでたき都やら知れませぬ。・・・・いで、尼が、お道しるべしてまいらせん。御子みこ さま、こう、尼におなら い遊ばせや、おん を合わせ、おねんぶつを仰せられませ」
尼のそばには、もう、そこへいざな われて、抱えるように立たせられたもかどのお姿が、おぼろに見えた。
山鳩色やまばといろ御衣ぎょい に、おぐしみずら・・・ に結わせ給い、つねの 癇症かんしょう や、駄々っ子の、み気色もなく、ふしぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。そして尼のするとおりに、小さいお を合わせられたようだった。とたんに、あっ ── と小さい叫びがし、お姿は、尼の体と一緒に、この世と、海づらの間を、さっと、ひるがえ りつつ、沈んでいった。
「さらば、おさきへ」
つづいて、経盛が、いとも淡々たる容子で、よろい姿に、僧衣の袖を、羽のように夕風に吹かせ、ざぶんと、永別の波音を下から告げた。
「さらば」
「── さらば」
ひきもきらさず、人びとの入水する白い飛沫ひまつ と水音だった。その間、二位ノ僧都そうず 。法勝寺ノ能円、律師りつし 仲快、祐円など、数珠じゅず んで、声高らかに、読経をつづけていた。
── ひと群れの花束とも見える女房たちに取り囲まれて、建礼門院も、さっきから、涙に濡れもだえておいでのようであったが、突然、彼女らの手を振りもぎって、 やお袖の色を、夕虹ゆうにじ のように逆しまにひき、あなと見る間に、波騒なみさい の底へ、姿を消しておしまいになった。
「あれっ・・・・。女院さま」
そつつぼね は、叫んだ。我を忘れて、
「女院さまが。たれぞ、早く」
と、賢所の方へ、走った。
すでに、」源氏武者が、船内を馳けまわってい、中には、義経の姿もあった。
義経は、さっきから、舷側げんそく の下までは来ていたのだが、つぎつぎの抵抗に出会い、たった今、躍り上がって来たのであった。
すでに、人影少ない船内の状を見、また、帥ノ局の叫びに、耳をつんざかれて、
「しまった。ひと足、遅かったような?」
と、残念そうに、そのまま、立ちすく んでいたのであった。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ