〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/22 (月) 『新・平家物語 (十四)』 P−194 〜 P−196

黄旗きばた はどこに?」
「どれが、みかどのまぎ れおわす、秘船かくしぶね か」
自船を捨てて、三艘の小型な熊野舟へ乗り分かれた義経以下の面々は、血眼で、敵中にただそれだけを捜し求めた。 ──今は、その黄なる旗一つのあり所に、全海域の船合戦も、収縮された形であった。
すでに断末のそう を見せた平家方の船々は、義経の行動にも気づかず、わが身わが身のさいごにあわてているのか、右往左往な船影の乱れのうちに、ただ、叫喚をむなしくしているだけだった。
しかしその間を縫い、たちまち、一群の軽艇が、義経の舟へ迫って来、
「そこなるは、敵の大将判官ほうがん と見たが、ひが目か。われは平家の能登守ぞ、教経なるぞ、教経なるぞ」
潮けむりのうちから、叫びかける者があり、
「捜していたぞっ。 ── 判官逃ぐるなかれ、能登の前に名のり出よ」
と、つづいておめ くのが、近づいた。
敵も十数艘、こなたも幾艘、どの上で、どの顔が、声を発したのやらも分らない。
だが、義経を守り合う面々は、能登と名を聞いただけでも 「すわ ──」 と、あらたまった戦気を持った。
その中では、岩国次郎兼秀がひとり教経の顔を知っていたので、
「油断あるな、能登どのは、あれよ」
と、指さして、見方の者へ教えていた。
そのとき、びゅんっと、敵の近矢が、兼秀の胴へあたった。矢は ね返ったが、兼秀は舟べりを踏みはず し、見方の足もとへ、ひっくり返った。
熊井太郎、水尾谷十郎のふたりは 「よい敵」 と、武者魂にふく れたが、彼へ近づけぬ間に、江田源三が先んじて、熊野舟のとが ったみよし から、教経の舟へ跳びこんでゆき、
「見參っ」
とばかり、長柄の一颯いつさつ を、横に描いた。が、空を打ったようである。
ざっと、高い飛沫ひまつ が、とたんに揚がった。源三の姿はなく、次の千葉ノ冠者胤春が、教経へ組まんとしていた。しかしこれも海中へ振り飛ばされた。
教経の小舟は、血で染められ、そしてはまた、潮の水玉で洗われた。いど んで行った東国武者は、例外なく、彼の大薙刀にかかり、命を落とすか、 おと された。まったく、近づき得ないがい があった。
義経に出会い、彼と一期いちご の勝負をして果てん、というのが、教経の願望だったのではあるまいか。
いわば彼自身の悲壮な心理のかな でを、極致にまで高める死に花として 「── 敵将義経を道づれに」 と、死神のごとく、つけねら っていたらしく察しられる。
で、義経が小舟に乗り移り、挺身ていしん 、平家の中へ突き進んできたのを認め、教経も 「すわ、判官が姿を見せし」 とばかり、小舟を飛ばして来たものだろう。
もちろん、この時、源氏方でも、義経の意を知って、副将の田代信綱や、安田義定、梶原一族まで、ほとんどが、大船から小型の兵船へ、乗り移っていた。巨船と巨船との海戦から、波間の白兵戦へと、様相はいよいよ終局へ来ていたのである。
だから、教経と義経の衝突だけでなく、源平の小艇戦は、随所の海面を赤くしていたのである。小松新三位資盛やその弟の少将有盛などの公達も、この一瞬ひととき に、浪間の華と消えて散り、左中将清経も最後と聞こえた。 ── そして教経の郎従、権藤内貞綱も討ち死にを遂げたのだが、ひとり教経のみは、不死身の夜叉やしゃ のように見えた。古典によれば、このさい、権中納言知盛から、人をもって教経へ。 「── いとう罪な作り給うそ」 と、その殺戮さつりく ぶりの余りなのを止めて 「ただ好き敵へ組み給え」 と、いいよこしたと伝えられるが、既に破局の乱麻らんま の中、どうであろうか。
それにしても、大豪だいごう という風貌ふうぼう ではなし、むしろ、病弱とすら都では言われていた教経の、勇猛ぶりは、敵味方なくそれを偉として、人々はきも をつぶした。 ── しかし常に主戦を唱えて、平家をこれまで引きずってきた彼とすれば、当然な責めと死の道を示したまでのことであろう。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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