〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/23 (火) 『新・平家物語 (十四)』 P−197 〜 P−198

ともあれ、教経は、義経をここに見出した。
一念、彼はその大童おおわらわ な姿を、命の火花そのものに見せて、義経の小舟へ、自己の舳先へさき を当ててゆくやいな、
「卑怯っ。 ──判官っ、卑怯ぞ」
と、絶叫していた。
たしかに、義経らしき小兵こひょう な大将が、ひよどり の如く、ひらと、ほかの舟へ逃げたのを見たからだった。
おりから源氏の小艇も無数に寄っていた。
義経は、その幾艘かを跳んで、教経の切っ先を避けた。
「待てっ。あからさま、こう名のられながら」「m逃げ給う法やある。判官きたな し、返せ、返せ、末代笑いぐさぞ」
髪振り乱して、相手を じしめながら、教経も一、二艘は跳んだが、ついに義経を見失った。そして、身は東国勢の重囲の内にあるのを知って、
「むっ、無念」
と、引っつかんでいた一人の武者を、どうと、潮のうちへ はな した。
安芸あきの 大領たいりょう 実康さねやす の子、太郎実光とその弟の次郎とが、同時に、彼の両脇から組みついた。
いまは大薙刀なぎなた も失っていた教経は、右手で安芸太郎の首の根をつかみ、片手に次郎の帯際おびぎわ を抱き込んで、
「死での道づれは、判官とこそ したれ、なんじらのとも は、不足なれど、いで連れ行かん。やあやあ、敵も聞け、味方も見よ。故太政入道殿のおい 、能登守教経、生年二十六、いま世を辞す。さらばぞ」
言い終わるまで、二人の体を引っつるしたまま、金剛力こんごうりき で踏みこらえていた。そして、だだだと、二歩三歩、揉み歩いたかと思うと、船べりを蹴って、それなり海中へ、どうっと躍りこんでしまった。
滝のような飛沫ひまつ が立ち、それは一瞬の水泡と し去った。それなり教経も安芸兄弟も、浮いては来ない。 ── ちょうどまた、潮時刻も、西流の急を最盛にしてい、夕せまる海峡の内は、人の作る阿鼻あび 叫喚きょうかん のあらしのほか、べつに海水の異様な底鳴りをも抱えて、世の春もよそに、ごう の大悲譜を奏でていた。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ