〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/14 (日) ベートーヴェンの生涯 (二十四)

親愛な ベートーヴェン! 彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりもさらにはるかに以上の者である。
彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。
彼の悲惨によってわれわれの心が悲しめられているときに、 ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。
愛するものを失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前に坐って何も言わずに、あきらめた嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように。そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗してのはて てのない、効力の見えぬ戦いのために疲れるときに、このベートーヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、言い難いさきわ いのたま ものである。彼から勇気と、たたかい努力することの幸福と、そして自己の内奥に神を感じていることの酔い心地とが感染してくるのである。彼はあらゆる瞬間に自然・・ と融合する体験を重ねることによって、ついにもろもろの深い精力・・ と融け合ったかのように見える。
一種の恐怖を交えた賛嘆をベートーヴェンに対して持っていたグリルパルツァーは彼についてこう言った ── 「彼は、芸術が自然の本然的な気まぐれな諸要素と溶け合うような恐るべき点まで達した」 と。
シューマンも 『第五交響曲』 について同じようなことを書いている ── 「この作をたびたび聴いていると、それは、生起するたびごとにわれわれの心を恐怖と驚嘆で充たすような自然現象の力に似た避け難い力をわれわれの上に影響させる。」
また、ベートーヴェンが心を打ち明けていた友のシントラーは ── 「彼は自然の霊をつかんだ」 と言っている。
まさにその通りである。ベートーヴェンは自然の力の一つである。そして、この元素的な一精力が自余の自然を対手にして戦うありさまは、まことにホーマー的な偉大さを感銘させるところのすばらしい見物みもの である。

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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