〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/15 (月) ベートーヴェンの生涯 (二十五)

彼の全生涯は嵐の一日に似ている。 ── 最初はさわやかに澄んでいる朝。もの倦いかすかな微風そよかぜ が吹く。しかし早くも不動の大気の中に、ひそかな威嚇があり、重苦しい予感がある。突如、大きな幾つの影が横切り、悲劇的な雷鳴と、凄いざわめきに充ちた沈静と、猛烈な風の打撃が来る。 ── すなわち、 『英雄曲エロイカ 』 と 『第五』 とがそれである。しかし昼の光の明澄さはまだそのために傷つけられてはいない。歓喜は依然として歓喜であり、悲しみも希望を保ちつづけている。
けれども1810年以後、魂の平衡は破れる。照らす光が奇妙なものになって来る。最も明るいさまざまの思想からあたかも水蒸気のようなものが発ちのぼるのが見られる。それらは散ったり再び集結したりしながら、憂鬱な気まぐれな曇りとなって心を翳らせる。
音楽的な意想イデー は、靄の中から一度二度浮かび出たかと思うと再び靄に呑まれてまったく消滅したかのように見えることもしばしばである。そしてそれがもう一度現れ出るのはただ楽曲の終わりに突風的にである。
快活さそのものが一つの厳しく野性的な特性を持ち始める。あらゆる感情へ苦味がまじりこむ。夕闇が降りてくるにつれて、嵐は集積する。そして今や、稲妻を荷って膨張している重い真黒な雲の団塊、 ── それが 『第九交響曲』 の最初の部分である。 ── 大旋風の最高潮において急に闇が裂けて、無明が天空から追い出され、意志の行為によって昼の光の明澄さが取り戻される。
どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか? ボナパルトのどの勝利、アウステチッツのどの嚇々たる日がこの栄光に ── かって 「精神エスプリ 」 がはた し得た最も輝かしい光栄、この超人的努力とこの勝利との光栄に匹敵し得るだろうか? 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜・・ を拒まれたその人間がみずから歓喜を造りだす ── その誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮詰められており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった ──
『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』
Durch Leiden Frdude.
         (1815年十月十九日・エルデーディー伯夫人に)

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ