〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/12 (金) ベートーヴェンの生涯 (二十)

歓喜・・主題テーマ が始めて現れようと売る瞬間に、オーケストラは突如中止する。急な沈黙が来る。歓喜の歌の登場へ、この沈黙が一つの不思議な神々しい性格を与える。実際、この主題テーマ は一個の神ともいえるのである。
超自然的な静けさをもってひろがりながら、歓喜・・は空から降りて来る。
その軽やかな息のそよぎ、歓喜は悩みを愛撫する。苦悩から力を恢復して立ち上がる心の中へ歓びが辷る入るときに、それが与える第一の感銘は情愛の深さである。 ── 「その優しい目を見つめていると泣けてくる」 とベートーヴェンの友が彼について言った感情を今ここにわれわれも感じさせられる。その音楽の主題がやがて声楽となって現れると、まずそれは、非常にまじめな、そしてやや抑制された特質を持つ低音で示される。しかし、少しずつ歓喜は全体を手に入れる。それは一つの征服である。悲哀に抗する戦である。さてここに行進のリズムが来る。進軍する軍勢である。次中音テノール の熱烈な喘ぐような歌。それはわれわれがベートーヴェン自身の息の音を聴いているかと思うようなうち顫える部分である。── それは嵐の中を駆けめぐる老いたるリア王のように、デーモン的な心熱に憑かれながら野の中を作曲しながら駆け巡るときの彼の呼吸と、霊感された叫びとのリズムである。戦士的な歓喜のうちに、宗教的恍惚感がやって来る。それから聖なる大祝祭、愛の有頂天。全人類が腕を天へ差し出して強い歓声を挙げて、歓喜・・に向かって飛びかかり、胸の上にそれを抱きしめる。

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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