〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/09 (火) ベートーヴェンの生涯 (十六)

聾唖病は完全に進んでしまった。1815年の秋からは、他人と筆談で語るより他仕方がなくなった。筆談帳の最初のものは1816年である。1822年の、歌劇 『フィデリオ』 上演の時の、シントラーの書いたあの悲しい物語は有名である ──
「ベートーヴェンは総試演を指揮することを望んでいた。・・・・しかもはや最初の二重唱ドウエツト で、歌唱者の声が全然聞こえないことは明瞭になった。彼はテンポを著しくゆるめた。オーケストラは彼の指揮棒に従って進んでいるのに、歌い手たちはずんずん先へ駆け出した。[ 戸口にノックの聴こえる箇所まで進んだときに、] 全体が混乱に陥った。平生のオーケストラ指揮者ウムラウフが理由は言わずに一瞬の停止を命じた。そして歌唱者たちと数語を交わした後、再び演奏が続けられた。すると前と同じような混乱がまたしても生じた。二度目の停止をしなけらばならなくなった。ベートーヴェンの指揮の下に演奏を続けるのは不可能だということが明白になった。
しかしどうしてそれを彼に了解させることが出来るだろう? 『退場なさい。気の毒なベートーヴェン、君には指揮は出来ないのだ』 と彼に言える勇気は誰にもなかった。ベートーヴェンは不安を感じ落ち着きを くして、右に向いたり左に向いたりしながら、人々の顔の様々な表情を読み採ろうと努め、支障の原因がどこにあるかを分ろうと努めた。どちらを見ても、あるのは無言だけだった。
とつぜん彼は圧倒的な調子で私を呼んだ。私が側へ寄ると彼は手帳を差し出して、書いてくれ、と合図した。私は次の文句を走り書きした 『演奏を続けないで下さい。理由は家へ帰ってから。』 ひと飛びに彼は指揮台から飛び降りて私に叫びかけた 『早く外へ出よう!』 まっしぐらに自家うち へ駆けて帰り、室に入ると長椅子の上にぐったりと身を投げ出して、両手で顔を蔽い、食事の時刻までそのままの状態でジッとしていた。
食卓でも、彼は一言も口に出すことが出来ず、最も深い悲哀と落胆との表情を示し続けていた。食後か彼の許を立ち去ろうとしたら、独りだけにしないでくれと言いながら私を引き留めた。私が帰る時に彼は、評判のいい耳の医者へ明日行くから同行してくれと私に頼んだ。
ベートーヴェンと私との交際の全部の経歴中で、この十一月のせっぱ詰まった一日に比較され得るどんな日をも私は他に見い出せない。
・・・・彼はあの日、性根まで打撃を受けていた。そして彼の死ぬ日に至るまで、あの日の恐ろしい光景の記憶は、彼の心につき纏っていた。」
二年のちの1824年五月七日に、 『第九交響曲』 すなわち 『合唱を伴える交響曲』 を指揮したとき (むしろ、その時のプログラムに書いてある言葉によれば 「演奏の方針に参与した」 とき) 彼に喝采を浴びせた会場全体の雷鳴のようなとどろきが、彼には少しも聴こえなかった。
歌唱者の女の一人が彼の手を取って聴衆の方へ彼を向けさせたときまで、彼はまったくそのことを感づきさえしなかった。突然彼は、帽子を振り拍手しながら座席から立ち上がっている聴衆を眼の前に見たのだった。
1825年頃に、ベートーヴェンがピアノを弾いているのを見た英国の一般旅行者ラッセルのいうところによると、ベートーヴェンが静かに弾いているつもりのとき、音は少しも鳴ってはいなかった。そして、ベートーヴェンを生気づけている感動の様子を、彼の表情と力をこめている指と見つめつつ、しかも音楽は少しも鳴っていないその光景の中にいると、胸を締め付けられるような気持ちがしたという。

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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