〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/11 (木) ベートーヴェンの生涯 (十七)

自己の内部へ閉じこもり、一切の人々から切り離された彼は、だだ自然の中に浸ることだけを慰めとした。
「自然が ベートーヴェンの唯一の友であった」 とテラエーズ・フォン・ブルンスヴィックは言っている。自然が彼の安息所であった。1815年に彼を識ったチャールズ・ニートが言っているが、彼は ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を愛する人間を見たことがなかった。自然は ベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。
「私ほど田園を愛する者はあるまい」 と ベートーヴェンは書いている 「私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する・・・・ ( 「・・・・森や樹々や巌が返し与える木魂こだま は人間にとってまったく好ましいものだ・・・・」 ) 。彼は毎日のようにヴィーンの郊外を散策した。曉から夜まで帽子もかぶらず日光の中または雨の中を、独りで田舎を歩き廻っていた。
「全能なる神よ! ── 森の中で私は幸福である ── そこではおのおのの樹がおん身の言葉を語る。 ── 神よ、何たるこの荘厳さ! ──この森の中、丘の上 ── この静寂よ ── おんみにかしずくためのこの静寂さよ!」
彼を圧しつけていた色々な窮迫から、彼はこんな散歩によって息をついた。彼は金のための苦労に悩まされていた。1818年に彼は書いた 「ほとんど乞食をしなければならないほどになっているが、困っていないかのようなふうを装わねばならぬ。」 さらに言っている ── 「作品第百六番の奏鳴曲ソナータ は、こんな窮迫した状態の中で作った。パンを稼ぐために作曲するのはつらい」 と。
シュポールの言っているところによると、 ベートーヴェンは靴が破れて穴があいているために外出できないことがたびたびあった。楽譜出版所ない大きな借金をしているし、作曲を出しても金は入って来なかった。
予約注文で出した 『荘厳な弥撒ミサ 曲』 の譜は七人しか注文がなかった。 (その中に音楽家は一人もいなかった) また、一つ一つの作曲が三ヶ月の仕事を費やした彼の立派な奏鳴曲ソナータにに対して、彼はせいぜい三十ドゥカーテンを受け取っただけだった。ガリツィーン公は依嘱して作品第百二十七、百三十、百三十二の四重奏曲クワルテット を作らせた。これはおそらく彼の最も深い作品であり、血をもって書かれたように見える音楽なのであるが、 ベートーヴェンはそれに対してまったく支払われなかった。
家事の困窮と、そして、いつまで待っても支払ってもらえない年金のための、また一人の甥の後見役を引き受けようとするためのほとほと埒の明かない訴訟沙汰とのため彼は疲れ切った。この甥というのは1815年に結核で死んだ弟カルルの息子だった。 

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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