〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/08 (月) 『新・平家物語 (十三)』 P−100 〜 P−103

味方の眼は、余一ひとりに集められた。
いや源氏だけではない。沖の平家方の船列も、いつか紅旗を立ち並べた群形を一そう岸へ近々と寄せていた。そしてその船上にある無数の眸も、ここのなぎさ に立ち出た余一の影を遠くにとらえて、
「すわや、扇を射てみせんと、源氏の内から一騎、浜のなぎさへ進み出たぞ」
と、おそらく、鳴りをひそめているのではなかろうか。
── 余一宗高はいま、味方の静かなどよめきの中を割って、牟礼むれ の白砂にただ一騎立った。駒のたてがみに、風が少し見える。
彼は、かい抱いていた滋籘しげどう の弓を、左手にかまえて、二度三度、ブンと弦試つるだめ しのそら りを繰り返した。
── よし。
と思ったようである。
かぶとは脱いで、高紐たかひも (背へ) 懸けている。籠手こて を締め直し、あぶみを踏み調べ、もいちど自陣の方をちらと振り向いた。中には弟が見える、義経がいる、友輩ともばら がいる。あるいは、再び生きて会えないかも知れないのだ。 「・・・・さらば」 と、その顔は、最後の決別わかれ を告げているようであった。
やがて、きっと馬の首を沖へ向けて、自陣の人々をその後姿の後ろにおいた。
── 駒はしずしず波打ち際へ歩を進めて行く。
だが馬は、びょう としたうな づらを前にすると、ひたと、水際にひづめを突っ張り、動く気色も見えなかった。馬が急に耳を伏せるのは馬の恐怖か嫌厭けんえん の表情である。
「・・・・・・・・」
余一は、右の手をさしのべて、子をあやすように、馬のどこかをたたいている、そして手綱をめぐらし、一度なぎさ から離れ、チ、チ、チ、とくちびる を鳴らしつつ、浜のかなたこなたを地乗りして巡った。
馬のきげんを直してから、余一は再び水際へ向けて前と同じ姿勢をとった。
馬は鞍上あんじょう の人のただならぬ意志を知ったようである。余一のかかと が馬腹を蹴った。ざっと白い泡沫ほうまつ が花と咲いて左右へ潮のうねりを描いてゆく。 ── すでにその影は岸を離れ、浅瀬を馳け、やがてくら の辺まで潮にひた し、悠々ゆうゆう と泳ぎ出ていたのである。
夕雲が美しかった。
真っ赤な日輪を、もてあそ ぶ雲の や袖だった。雲が陽を隠しきると、雲のふち はみな紫ばみ、海づらも燦々さんさん波映はえい を消して、いちばい深い色に変わる。
べつに一扇いつせん の日の丸が、波間の小舟の上にあった。
玉虫は、そのまと の下に、立っている。彼女の眸がどんな感をこめていたかは分からない。ただその柳いろの五衣いつつぎぬ の袴、白い顔が、小さくあざ らかに望めるだけだった。
潮は今、満ち潮のさかりごろか。屋島の岸の水位は上がっていた。余一の影は、鞍腰くらごし まで水に浸り、駒はしきりに平頸ひらくび を振りもた げている。
おりおり、たたみ寄せてくる沖波が、その影に白いしぶきをぶつけた。しぶきは責め馬のムチでもあった。駒も必死に紺をかき分けてゆく。すでに扇の小舟をさしてだいぶ近づいた。 ── 矢頃やごろ (距離) もよしと見たのであろうか。余一の右手めて は、えびらの鏑矢かぶらや を一筋抜いた。そして、かっきと弓に加え、矢と弓を十字につがえてかざ すが如く眉より高く持った。矢バネを潮に濡らさないためであろう。
── それまで、ただ、かたずをのんだまませき としていたくが の源氏三百余騎は、
「・・・・あっ」
たれからともない大きな全体の揺れを見せ、
「まだ、早い」
と口走り、また、われを忘れて、
「余一どの、余一どの、矢頃は遠すぎるぞ」
「もい一段も二段も、沖へ馬を進ませて射給え。もそっと、馬を乗り入れよ」
と、叫びあった。昔の一段とは、今の六間のことである。
しかし、聞こえるはずはない。
その声ばかりでなく、天地の物音、すべて、余一の耳の外であった。

『新・平家物語(十三)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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