この深い静穏も永続する運命を持たなかったが、それでも恋愛の幸福な影響力は1810年に至るまで続いていた。彼の天才からその頃の最も完璧な幾つかの果実を作らせたところの自己統御の力を確かにベートーヴェンはあの恋愛に負うている。すなわち古典的悲劇とも言うべき
『第五交響曲』 や、夏のひと日の神々しい夢想である 『田園 (第六) 交響曲』 やが、その果実であり、そして、また、シェクスピアの
『嵐 』 に霊感されて生まれ、彼自身が自作の奏鳴曲
のうち最も強いものだと見なしていた 『情熱奏鳴曲』
は1807年に現れて、テレーゼの兄に捧げられたのであった。 テレーゼ自身へは作品七十八番の夢幻的で不思議な感じのする奏鳴曲
(1809年) を捧げた。日付のない、そして 「不滅の恋人に宛てて」 書かれた一通の手紙は、 『情熱奏鳴曲』
に劣らず彼の恋心の激しさを示している。 「わが天使、わが全
て、わが自己そのものである人よ、 私の心はあなたに伝え得ないほど満ち溢れている・・・・おお、私がどこにいても、あなたは私と共にいる。・・・・おそらく日曜日が来るまでは私からの消息をあなたがお受け取りになるまいと考えると私は泣けてくる。──
あなたが私を愛してくださるだけ、いや、それよりもずっと強く私はあなたを慕っている・・・・ああ! ── あなたの逢わずに生きているこの生活は味気無い!──
(あなたは) こんなに近いのに、こんなに遠い! ──私の思いはあなたに向かって飛ぶ、不滅の、わが恋人よ (meine
unsterbliche Geliebte) 私の想いはときおり歓ばしてやがて悲しくなり、運命に問いかけ、運命が私たちの望みを叶えてくれるかと尋ねながら飛ぶ。
── 私はあなただけと共に生きるか、まったく生きないかどちらかだ。・・・・あなた以外の女性
が私の心を占めることは絶対に、絶対に、絶対にあり得ない。 ── おお、こんないこんなに慕いながらなぜ別々に生きなければならないのか? しかも、ヴィーンでの私の今の生活はまったくわびしい。あなたへの愛が私を人間の中の最も幸福なものにしたと同時に最も不幸なものにした。
── 安心して下さい ── 安心して下さい ── 私を愛して下さい ── 今日も ── 昨日も ── あなたへの、あなたへの、あなたへの、憧れの涙をどんなに流したことか!
── わが生命 よ、わが一切よ
── さようなら ── おお、いつまでも私を愛して下さい。 ── あなたの愛するLのかわらぬ心を誤解しないで下さい ── この心は永久にあなたのもの、永久に私のもの、永久にわたしたち二人のもの。」 |