〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/08 (月) ベートーヴェンの生涯 (十二)

どんな秘かな原因が、愛し合っているこの二人の幸福への道を妨げることになったのであろうか? ── おそらくは、ベートーヴェンの側の財産の欠如、二人の身分の相違。おそらくはまた、ベートーヴェンがいつまでも待ちぼうけを喰わされて、愛を秘密にしておかねばならぬ屈辱にごう を煮やしたためかも知れない。
おそらくはまた、がむしゃらで病身で厭人的な彼が不本意にも、愛する彼女を苦しめて、自ら絶望に陥ったのかも知れない。 ── 婚約は破棄された。しかも、二人ともいつまでもその愛情を忘れることが出来なかったように見える。テレーゼ・フォン・ブルンスジックは (1861年まで存命していたが) その生涯の最期の日までベートーヴェンを愛していた。
ベートーヴェンも1816にいった ── 「彼女のことを考えると、僕の心臓は、初めて逢った日と同じくらいに強く搏つ。」
この年に 「はるかな恋びとに」 捧げる An die ferne Geliebte 六つの歌謡曲リーダー (作品第九十八) が作られたが、これらの歌は実に感動的なまた実に深みのある性格を持っている。
彼は手記の中に書いている。
「このすばらしい自然の風光を眺めながら私の心は漲り溢れる。しかも私のそば に彼女はいない!」
と。
テレーゼは自分の肖像をベートーヴェンに贈ったがその献辞に 「稀有の天才、偉大な芸術家、善き人に。T・B・」 と記した。
ベートーヴェンの晩年に一友人がたまたま彼を訪ねてみるとベートーヴェンは室に独りいて、テレーゼの肖像を接吻しながら泣いていた。そして彼の流儀どおりの大きな声でこんなことを言っていた。
「あなたはほんとうに美しくて偉大だったね。まるで天の使いたちにようだったね。」
その友はベートーヴェンに気づかれないようにそっとそこから立ち去って少しのち にまた来てみると、ベートーヴェンはピアノの前に坐っていた。
友人が彼に言う 。
「おい、今日きょう こそは君の顔つきから、悪霊がまったく退散してるじゃないか。」
ベートーヴェンは答える。
「僕の天子が訪ねて来てくれたんでね。」
心の痛手いたで は深かった。 「あわれなベートーヴェンよ」 と彼は独白した 「お前には此の世の幸福はまったく無い。お前はただ理想の領域の中でのみ、友らを見いだすだろう。」
彼は手記の中に書いた ── 「忍従、自分の運命への痛切な忍従。お前は自己のために存在することをもはや許されていない。ただ他人のために生きることが出来るのみだ。お前のために残されている幸福は、ただお前の芸術の仕事の中にのみ有る。おお、神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい!」

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ