それより少し前のこと。 熊谷は、敦盛の姿を遠くに見つけるやいな、 「しめた。よい敵」 とばかり須磨の松原を馳け縫って、ただ一騎、この渚
まで、追っかけて来たのである。 「── 天の与えぞ」 と、叫びもしたいほど、かれの、とかく武運に恵まれない不遇な恨みは、この時、功名の望みに燃え上がっていた。 なんと、俺ほど、武運の拙
い者があろうか ── とは、今の今まで、いらいら抱いていた自分への嘆きだった。 宇治川でも、また、今暁の合戦でも。 他の同僚は、それぞれ、武功を立てたが、彼のみは、一子直家が二度も手傷を負って退くような不運を見たほか、まだ、敵らしい敵にも巡り会っていない。 わけても熊谷が、ひそかに残念にしていたのは、義経が初の院參の際、その供にもれたことだった。 それやこれ、剛直な男も、少なからず気を腐らせ、今朝から功名にあせっていた。 そしてしきりに、 「──
よき敵もがな」 と、血眼になっていたおりもおりだったのである。 「遁
してなろうや」 と、阿修羅
になっていたのも無理ではない。 「やあ、見奉るに、平家の内にても、名ある大将の御一人に候わめ。敵に呼びかけられて、返し給わぬほど、恥知らぬ君にては、よも、あるまじ。返し給え。いさぎよく勝負をとげて、武門の人たることを示し給え」 すると、かなたの浪間の声は、
「おうっ」 と、答えたようだった。 敦盛は、すでに、駒をめぐらしている。そして、熊谷の影を真っ向
から見つつ近づいて来た。沖へ向かっては、怯
えがちだった駒も、岸へ向けかえられると、よく泳いだ。そしてその馬蹄
が、浅瀬の一端をふんで立つやいな、ほとんど本能的な迅
さで、白波を蹴り、熊谷の駒へ、ぶつかって来た。 「── あっ」 待ち構えていた熊谷が、かえって、駒をかわしたほど、それは、盲目的な勢いだった。 「おお、よくぞ、引っ返された。さすが、辱を知るよき大将の君におわさん。・・・・いで」 と、熊谷もまたともに渚
を馳けあがって、 「名のり給え。 ── そも、かくいう者は、武蔵国の住人、熊谷丹治次郎直実。 ── 会い奉るこそ、冥加
なれ」 と、大音声でいった。 敦盛は名のり返そうともしなかった。 その全姿は ── 萌黄
匂 いの鎧も、鶴の模様を刺繍
した直垂 も、こがねの太刀も、そして鞍やあぶみまでも
── 滝のような濡れしずくを滴
らせて、何か、夢見る人のようですらある。 「・・・・冥加とや」 ふしぎな言葉と聞こえたのか。 敦盛は、口のうちでつぶやいたが、その唇さえ、海の冷えに凍
えて、紫ばみ、生きた人の色にはなかった。 が、熊谷の眸には、相手の姿すべて、一個の燦然
たる武勲の獲物としか、見えていない。 同時に、わずかな猶予も、許せない気がした。こういう間にも、敵の加勢よりは、味方の邪魔が惧
れられる。功名争いという点では、味方の同僚こそが敵なのだ。せっかくの獲物も、首を挙げた者の手柄に帰し、つまらぬ目にあう例は少なくない。 「やあ、唖
にもあらぬに、なぜか、ものいい給わぬよの、名のり給わずば、それまでのこと、いざ」 あららかな息吹
の下に、だっと、駒を煽
り出して、馳け寄せざま、 「組まんっ」 と、挑
んだ。 「オオ」 敦盛は相手の強力に、のぞけったが、憤然と、鎧の袖を鳴らして、熊谷のどこかを、必死につかんだ。 が、もとより熊谷の敵ではない。 たちどころに、敦盛の体は、砂上へ投げつけられ、とたんに、小鳥へかかる隼
の爪 を思わす迅
さで、熊谷もまた、馬の背から、下のものへ跳び移っていた。 絢爛
な獲物のもがきをひざに組みしきながら、熊谷は、勝者の歓喜というものか、語意もない、獣じみた喚
きを、ただ無自覚に歯の根から発していた。 そして早くも、右手は、よろい貫しを引き抜き、 「お覚悟」 と、それだけは、はっきりいった。敦盛の首をかっ切ろうとしたのである。 本能的なもがきは見せたが、敦盛のそれは、抵抗というにも足りぬ戦慄
に過ぎなかった。初めから、死ぬべく駒を引っ返して来た彼である。観念の瞼
をふさいでいた。 |