〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/30 (土) 『新・平家物語 (十一)』 P−193 〜 P−196

「・・・・・・・」
だが、そこに、何が起こったのか。
上なる勝者、下なる敗者、一瞬、どっちの呼吸も、止まっていた。熊谷の刀の手は、しび れたように、ただそれを、敦盛ののど もとへ したまま、突き刺すことを忘れている。
しずかに、死を受け取ろうとする刹那せつな の白い生命のまたたきが、熊谷の心のどこか一角を、ふと、われに返らせたに違いない。
そして、この貪欲どんよく な功名の猟人も、爪にかけた獲物の、余りな可憐いじら しさ、美しさに、
「── あわれ、まだ、うら若さよ」 と、同じ年ごろの、わが子を、思い出したのだった。
「彼の一子、小次郎直家は、明けて十七。
下に組み敷いている内兜うちかぶと をうかがえば、この敵もまだせいぜい十六、七の年ごろに過ぎない。
黒々と歯に鉄漿かね を染め、 っすらと、公卿くげ 化粧けしょうあと を残し、覚悟の眉をひそめている様、何か、あどけなくさえ思われた。生きながら死んでいる乙女おとめ容顔かんばせ を見るかのような心地がした。
── 親もあろうひ。
こう思ったとき、熊谷は、もう、かれ自体のもろさに心をくずされてしまい、日ごろの愚直そのものに戻っていた。東国の野を耕して来た人間の中にままある型なのである。野生を基調とした素朴な人間愛を、彼も具足の下にそのまま持っていた。 ── 彼はここが戦場であることも、うかと忘れ、われにもあらぬ涙さえ眼にもって下なる人への顔へ、そっとたずねた。
「公達、公達・・・・。た、た、助けて参らせよう。おん名を名のらせ」られい。そも、和君わぎみ は、平家の内の、いかなるお人にて渡らせ給うか」
「・・・・・・・・」
敦盛は、眼を開いた。しかし、敵の兜顔かぶとがお を、見すましただけである。
むりもない、疑っているのだ。と思ったか、熊谷はかさねて言った。
「なんと、和君の一人ぐらいを助けたとて、いくさ の勝敗にかかわりもせぬ。・・・・ただ、おん名だけを、もらされい。お命は、一存にて、助け参らせん。おん名はなんと仰せらるるか」
敦盛は、初めて、答えた。
「和殿は、源九朗義経殿の家来か」
「さん候う。・・・・熊谷直実と申すもの」
「ならば、わが名は、お主の九朗殿に問い給え」
「えっ、九朗の殿と、お知りあいか」
「いや、知らぬ、敵の大将、親しいはずはない。けれど、義経殿の侍に打たるるは、いささか本望。なんじにとっても、この我は、よい敵ぞや、首を取って、義経殿の前に供えよ」
敦盛は、身を起こして、すわり直した。茫然ぼうぜん という態は、熊谷の方だった。 「── く斬れ」 という叱咤しった のすずしさに、驚かされたほどである。
遠くには武者声や矢音もしている中なのだ。敵味方の判別はつかないが、人目もおそ れられた。逡巡しゅんじゅん はゆるされない。
それに 「わが名は、九朗殿に問え」 といった敦盛の一言は、熊谷に、いらざる慈悲心は見の禍になろうかとも、考えさせた。 「主君もご存知の敵、後日、助けたことが、ふと、知れぬ限りもない」 と、迷いの上にまた迷いが重なっていた。
だが、なんの迷い、なんの思慮、めぐり会ったこの武勲を前にしてと、彼は、自分の意気地なさを、心の中でののしったに違いない。
── 一瞬の後には、手の太刀から滴々と血を雫させていたのである。左の手には、敦盛の着ていた直垂の袖に、その首を包んで持ち、また敦盛が大事そうに帯びていた一管いつかん の横笛を取って、自分の腰へ移していた。そして蹌踉そうろう と ── まったく闘い疲れたか、血に酔うたような足どりで ── わが駒のそばへ歩み寄った。
彼ほどな剛の者が、しかも、 ち取った武勲を手に、なんで、そんなにまで闘い疲れたのだろうか。やがて馬上、陣へ引き揚げて行く姿にさえ、得意な風など、どこにもなかった。

『新・平家物語(十一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ